2023年6月19日月曜日

「物語におけるアイコン、あるいは「他者」について――児玉雨子「誰にも奪われたくない」論」

 はじめに

「誰にも奪われたくない」は「文藝」2021年春季号(河出書房新社)初出の、作詞家として活躍する児玉雨子氏のデビュー小説である。

まずは作品のストーリーを概観しておこう。兼業作曲家の玲香は、アイドルグループ・シグナルΣの「ジルコニアの制服」を作曲したことをきっかけに新年会に招待され、その席で、メンバーのひとりである真子とLINEを交換する。玲香はその後、真子といっしょに食事をしたり、家に遊びに行ったり、あつ森をともにプレイしたりする。やがて真子は盗癖が発覚し、シグナルΣを解雇される。以上のような真子と玲香のストーリーに加え、玲香の本業である銀行勤務――そもそもは一般職だったが、総合職に配置換えされた――における葛藤――この葛藤の描かれ方の特異性については、いずれ考察する機会を得たい――が差しはさまれるような構成となっている。

本作について、たとえば道重さゆみ氏は、〈私でありつづけることは難しい。それを求める主人公レイカは強い。〉という言葉を単行本版の帯文に寄せている(※0-1)。また、ぱいぱいでか美氏は本作を〈“生きづらさ”……その言葉で楽になったり何なら名称がついたり、はたまた特別な人間ってわけじゃなかったのかという落胆さえこの作品には描かれている。自分の話のようでゾッとする。そして同じようにゾッとしている人間が、夥しい数いるであろうことにまたゾッとする。〉と評した(※0-2)。担当編集の矢島緑氏は、児玉氏の作品の魅力について〈描写の解像度の高さや、一文を取り出したときの情報の凝縮感〉を挙げている(※0-3)。

本論においては、「誰にも奪われたくない」におけるコミュニケーションの描かれ方、iPhoneSE2という固有名詞が果たす機能、「整然」「雑然」という様態が暗に示す人の在り方、社会の中における人の存在の仕方を考察し、そこから「誰にも奪われたくない」というテクストの美点を為す特徴を摘出することを目的とする。

1. 三相の会話、あるいは鍵括弧という「楔」

「誰にも奪われたくない」においては、主に3通りのコミュニケーションが存在している。すなわち、①LINE、②電話、③対面での会話となる。そうして、本テクストに目を通せば、そこに微妙な描出の相の違いが存在していることに一読気づかされだろう。

まず、②の電話について、本テクストでは玲香と林の電話は、たとえばこのように表現されている。

普通に、帰ってる最中。めしは? これから家で食べる。何作るの? ごめんもしかしたら通信制限で切れちゃうかも。あ? 大丈夫だよ、通信制限って電話関係ないから。そうなの? うん、で、何食べるの? ラーメンかな……賞味期限処理。あと焼鳥も。

このように、互いのやりとりがシームレスにつながり、瞥見しただけではどちらの発語か戸惑うような表現となっている。

また、電話については以下の玲香の発言も無視することはできない。

なんで電話無視するんだよ、と軽い調子でありながら、林はこちらの様子を窺うように訊いてきた。

「イヤフォン無くしちゃって、片方だけ今取り寄せてる状態だから」

「無くても電話自体はできるじゃん」

えっほんとだ。バカかよ。

玲香は通話時にはイヤフォンをつねにしていること、すなわち、通話相手の声が、ダイレクト且つクリアーに聞こえるような「場」にあることが理解される。

次に③の対面での会話について、こちらには2種類の描かれ方が存在している。②と同様にシームレスに二者の会話がつながっていく場合と、鍵括弧鍵括弧内にセリフとして組み込まれている場合である。後者のパターンについて、一例を挙げておく。

「そんな形あるんですか⁉ 新しいのですか?」

「新しいかはわかんないけど、AirPods Proっていう、ちょっとだけ高いやつ」

「えー、いいなあ、AirPods Pro。あの、普通のAirPodsって、プニプニがないじゃないですか。わたし、耳小さくて、プニプニが取り替えられないものは落ちちゃいそうだなーって思っちゃって変えなかったんですよー」

最後に①のLINEについて。LINEのメッセージの大半は、【】に挟まれた太字で、以下のように記述されている。

【今日はありがとうございました! 久しぶりに会えてほんとうにうれしかったです。そしてまた玲香さんの曲を歌えてほんとうにうれしすぎます……!】【こういう雰囲気ですけど、ぜひまたごはん行きたいです! ガレット最高でしたね(瞳を潤ませた顔の絵文字)】【でも、今はな~って思われたら、ほんとに、遠慮なく断ってください(土下座する女性の絵文字)(汗の絵文字)(汗の絵文字)】

これらの表現方法の差異あるいは多様さを考えるにあたっては、作中でコミュニケーションがどのような認知のもとになされているかを見る必要がもちろんあろう。

玲香は他者とコミュニケートするにあたり、自らのコミュニケーション方法や相手のコミュニケーション方法について、非常に鋭敏な感受性を見せている。たとえば、新年会での真子との会話に際しては、〈彼女に合わせて、訊かれたことをアンケートのように答えてゆけば、自然と強度のある会話が成立していた。〉と言っているし、だれかに何かを〈説明〉することは、〈他人が知らない言葉を呪文にして威圧している気分になる〉と言っている。また、金融商品の売り込み方について先輩の三浦から注意を受けた際には、

三浦さんは先ほどわたしが商品を売り込んだときより、テンポを落として諭していた。確かに矢継ぎ早に丸め込むより、ゆったりしながらも極力絶え間なく言葉を挟み込むほうが耳に残った。それだけじゃない。ねぇ、と忘れたころに弱拍を強調することで、漫然としてしまいそうな話に緩急が生まれる。不安定なリズムで、聴いているだけで揺り動かされそうになる。

と、その話し方の特性をつぶさに観察し、いっぽうで自分の相槌を〈ドラムの打ち込みのよう〉と表現する。

これらの例からうかがえるのは、玲香のコミュニケーションのいずれもが、お世辞にもなめらかとは言えない様子である。それはすなわち、玲香が対面でのオーラル・コミュニケーションを極めて苦手とするタイプの人物として作中では表現されている、ということになる(※1-1)。実際、玲香が、次のように述懐する箇所がある。

自分の書き言葉と話し言葉のテンポの違いに、真子ちゃんは戸惑わなかっただろうか。真子ちゃんのメッセージは、ひと言ひと言、絵文字も含めて、すべらかに彼女の声で再生ができた。どんな声色やテンポで彼女に語りかければ、自然な、あるべき会話になるのだろう。

ただこうして会って話しているときより、ライブ映像を観ていたり文字でやりとりしているときのほうが、わたしは真子ちゃんに対して誠実でいられる。

そうしてさらに、この述懐からは、玲香にとって「だれかと会って話す」という営為には「ある種の不自然さ」とでも言うべきものが付き纏うということもわかる。

さて、それではその「ある種の不自然さ」は何に由来するものだろうか。それを考えるヒントとなるのが、林から電話がかかってきたときの、林の声を認識する際の枠組である。

何してんの?

また、透徹した無音から林の声がくっきりと届く。

〈透徹した無音〉とあるように、ここで玲香は、林の声「だけ」を聞いていると考えられる。そこには、日常生活にはつきものの、「自分たち以外の人やものの音声」が、存在していない。もしくは等閑視することができている。また、林と玲香は敬語を使う間柄になく、電話で話す内容としても埒もないものが多いことにも着目すべきだろう。別の視座に立てば、「そうではない」場合、たとえば三浦や真子と会話をする際には、〈透徹した無音〉を欠いている、すなわち、三浦や真子の言葉「以外」の情報が氾濫している、ということになる。そうして、その情報量に、玲香は圧倒され、妨げられていると言っても過言ではない。これこそが玲香に付き纏う「ある種の不自然さ」の正体であろうことは、さほどに飛躍した推論ではないだろう。

それは、本論「はじめに」で引いた矢島氏の言葉によって傍証される。〈描写の解像度の高さや、一文を取り出したときの情報の凝縮感〉とは、玲香の一人称によって語られる本テクストにおいては、すなわち、玲香自身の認識の解像度の高さや日常的に受け取る情報量の多さに他ならないからである。

また、このことを踏まえると、シームレスな会話とそうでない会話の混在も、本テクストにおいては非常に理に適った使い分けであると言える。すなわち、シームレスな会話は玲香にとってどんどん後景へと流れていってしまう会話、鍵括弧のついたセリフは玲香にとって前景に押し出されたセリフであると言えるのではないか。

この仮説を裏打ちするのが、本テクスト内におけるLINEの文面の表記である。先述のとおり、本テクストにおいてLINEの会話は【】に挟まれ、尚且つ太字での表記となっている。すなわち、ページを開けば文字通り、「目に飛び込んでくる」ような表記――著しい前景化――をされている。一方で、たとえば新年会に参加したグループのLINEは〈その多くがひと言ずつの返信なので、メッセージがすかすかのジェンガみたいに倒れそうなバランスのまま堆く伸びてゆく〉と表現されるだけで、具体的な表現については、テクスト上では一顧だにされない。つまり、テクストの後ろ側に文字通り退いている。この明白な温度差は、対面での会話においても同様にあると考えるべきだろう。

さて、このことを踏まえたうえで、三浦や真子の発話を見てみることにしよう。

三浦に相対している場合と真子に相対している場合では玲香の心理にむろん違いはあろうが、それでも共通点を見出すとするのならば、鍵括弧に入れられることによる効果には、同様のものがあると言える。無論LINEの場合と同様、その言葉を前景化する、というものである。圧倒的な情報量を背景に、何かをつねにつねに前景化するもっとも基本的なやり方は、背景とは別レイヤーに発話を設定し、それをつねに最前面に置きつづける、というやり方であろう。

とはいえ、現実と結合はされていないものは、一般的に言うなら、現実から乖離しようという欲望がつきまとう。一方で、鍵括弧が担う機能として、それがセリフであること、すなわち作中の現実においては客観的な事実であることを示す、というものがある。本作においては、コミュニケーションに応じてその表現方法が変わることにより、前景化しつつ定着する、という、いわば楔としての鍵括弧の機能をむきだしにしている、と言える。端的な言い方をするのなら、記号を純記号的に扱うのではなく、記号が内包している可能性に対する鋭敏さを見せていることに、本作の美点のひとつはあると言える。

2.「iPhoneSE2」という固有名詞、あるいは「欲望」について

「誰にも奪われたくない」には、いくつかの固有名詞が登場する。たとえば「ニューデイズ」であったり、「Cubase10」であったり、「あつ森」であったり、「AirPods Pro」であったりというのはその一例だ。その一方で、玲香が真子と食事をした店の名や、玲香が居を構える自宅の最寄り駅名などは丁重に隠されていることも指摘しておかなくてはならないだろう。本項においては、本作でとりわけ頻出する固有名詞「iPhoneSE2」に着目し、その使われ方についての一考察を試みる。

本テクストにおける主人公・玲香の最初の購買行動は、以下のように記述される。

ニューデイズで一本四七八円、税込五二五円の、自然由来成分で肌に優しいと謳う限定色の商品を買った。それしかなかった。改札を出てドラッグストアまで行けば、ただ乾燥を潤すためだけのシンプルなものがもっと安く買えるけれど、今すぐに手に入れば別になんでもよかった。

この行動は、本作においては、ある意味において非常に象徴的である。具体的に言うのなら、「『これを買おう』という欲望の欠如」がここには言葉を尽くして表現されていて、なおかつこの「『これを買おう』という欲望の欠如」は、テクスト中の玲香の購買行動を支配しているからである。ほかの例をいくつか挙げるなら、たとえば夕食用に買った〈焼鳥〉は〈三割引シールのある〉もので且つ「味わう」場面は割愛されていて、〈ピーマン〉をマンションの〈向かいにあるまいばすけっとで(……)買って来〉るのは、ピーマンが食べたかったからではなく、〈せめて包丁で何かを切って、ガス火くらいつけなくては〉〈包丁の握り方すら忘れてしま〉うという危機感に基づいている。これは、真子の自身の盗癖についてセリフ〈でもこれ、単純に欲しかったというか、結局物欲が抑えられないことの言い訳なんですよね〉と好対照をなすと言ってよい(※註2-1)。

それでは、なぜ玲香はiPhoneSE2を使用しているという設定なのだろうか。iPhoneSE2は2020年4月24日に発売された(※註2-2)、テクスト中における、iPhoneの最新機種であると考えられる。それを踏まえると、ひとつには、作品中の時間を同定する機能があるだろう。すなわち、マスクをつけている描写などとおなじく、本テクストがコロナ禍の日々を綴ったものであることが、iPhoneSE2という固有名詞の使用によって明らかとなるのである。

iPhoneSE2は、しかし、iPhoneの廉価版ということもあり、2019年に発売されたiPhone11に、いくつかの機能面では張り合うことができない。が、廉価版とは言え、iPhoneSE2は格安スマホなどと比べれば決して安価とは言えない。ましてや、〈ワイヤレスイヤフォンは高価なので、やすやすと代替用を購入するわけにもいかな〉いと言っているくらいなのだから、iPhoneSE2の購入には、それなりの決断力が要求されるであろう。

これらのことから鑑みるに、玲香がiPhoneSE2を使用している、という設定には、この作品には珍しく、「『買おう』という欲望」が――デザインが気にいったのか、所謂Apple信者だから仕方なくなのかは不明だが、仮に後者であったのだとしても、「『買おう』という欲望」中での作用にそれはなるはずだ――ほの見えるのだ、と言える。

そもそも、玲香は欲望とはいささか縁遠い存在として造形されている。たとえば、彼女は銀行員と作曲家という二足の草鞋を履いているわけだが、どちらもばりばりにこなしているわけではない。銀行ではFP2級資格をまだもっておらず、勉強しようとテキストを買ったものの、〈やろうとしていたけど、申し込み終わっちゃってた〉という具合であり、顧客への金融商品の勧誘についてもまた〈他人を騙してるみたいでしんどい〉と及び腰だ。肝心の作曲のほうでも、なかなかコンペを通らないうえに〈Cubase10を起動したものの、白鍵、黒鍵、白鍵、黒鍵、白鍵、白鍵、黒鍵の模様を眺めるだけで、指が動かない。(……)進行やスケールから、流れを削りだしたり、配列して体裁を整えるのだが、それすらも強く奮起しなければならなくなってきた〉と行き詰まりを見せているが、それをどうにかすることなく――あるいはどうすることもできず――その日は〈作曲を諦め〉てしまう。

この欲望との縁遠さを、玲香の生来のものと位置づけるべきか否かという点については本論の考察の対象とはしない。(あくまで現段階での筆者の感触ではあるが、生活上で蓄積していった疲労が、玲香を欲望から遠ざけているようにも見える。)本論において踏まえておきたいのは、欲望という、一面では人を人たらしめるものの表出が希薄な結果、玲香は、たとえば「真子ちゃんには興味をもっていた」ではなく、〈真子ちゃんに興味がないわけではなかった〉という微妙に歯切れの悪い言い回しを用い、また、〈わたしは他者から分けてもらったり奪ったりしてきたものの組み合わせであり、それらの総体でしかない。/組み合わせのわたしは、そこから盗まれ続けてもいる。〉という認識に至る、という点だ。

そんな中において、玲香の欲望が作用しているiPhoneSE2は、「誰にも奪われたくない」においては、貴重な、と言ってもよい玲香の主体性の表明になっている。これを踏まえると、彼女が鏡代わりにiPhoneSE2のセルフィ―モードを使用したり、LINEはもちろんのこと、音楽を聞くのもYouTubeを見るのもiPhoneSE2であり、〈ロッカールームの隅で、手持ち無沙汰にほとんど通信できないiPhoneSE2を撫で〉たりすることは、俄かに重要な意味を帯びてくると思料される。それらの動作は、iPhoneSE2に「自身を託す」というのに限りなく近いニュアンスを発生させるからだ。

さて、物語のクライマックス部で、このiPhoneSE2には衝撃的な展開が待ち構えている。

わたしは持っていたiPhoneSE2を地面に叩きつけた。(……)うお、すごい、ヒビやばい! と茶化しながら、砂粒を払って、蜘蛛の巣が張ったような亀裂が走った画面のiPhoneSE2を(引用者註・そのときいっしょにいた林が)手渡してきた。iPhoneSE2は画面保護カバーを貼っていたのでガラス片が離散せずに済んだものの、亀裂からは液晶が滲出して、画面のところどころに小さな黒い液溜まりを作っていた。今まで見たなかで最も希望のない黒色だった。

この、玲香による、自身を託していると言っても過言でなかったiPhoneSE2の破壊行為をどうとらえるべきか。

iPhoneSE2を破壊した直後、玲香は林にこう告げる。

なんで林から、正しさを教えられなきゃいけないの。(……)わたしを林の中のわたしに変形させようとしないで(……)どうして当然のように、自分のことを無条件にかけがえのない存在だと思えるの?

これは、例えば〈お前いっつもそのうどんじゃない?〉と社員食堂で言われ、そのまま〈断固として林は、わたしの普段の昼食にわかめうどん以外を認めなかった〉へとなし崩しにされてきた玲香とは、おそらく一線を画した態度なのではないだろうか。

また、帰宅後玲香は、真子にLINEを送る。

【真子ちゃん。元気? カウンセリングはどう? 会いたいなーと思っている(照れたように頰を染めた顔の絵文字)(照れたように頰を染めた顔の絵文字)】

このLINEの文面が読者に吃驚すらも齎しうるのは、こういう誘いをかけるのは、テクスト中では決まって真子のほうだったからである。玲香が真子にLINEを自分から送った例として挙げられるのは、「あつ森」の粘土の使い道を聞いたときくらいではなかったか。

これらの「玲香の変化」を感じさせうるものが、いずれもiPhoneSE2の破壊後に起きていることは、玲香の実際の思惑がどうであるにせよ、単語を配置して文をつくり、その文を集めつなぎあわせた「テクスト」というものの中においては、ひとつの解釈を否応なしに導いてくる。すなわち、iPhoneSE2という自身のオルタナティヴを破壊することが、いわば「自殺行為」として作用するのではなく、そこに籠めていた自我を自身のなかに正しく取り戻すものとして作用した、という解釈である。また、林に厳しい言葉を浴びせて帰宅した後、マスク(=顔、すなわち人の個性を端的に示す部位を隠すもの)がなくなっていた、というのも、この文脈に置くと、ようやく玲香が、いわば素顔で話をすることができた、というアナロジーを帯びてくることを付言しておこう。

さて、この破壊したiPhoneSE2を、玲香は修理に出そうとする。それがどういう効果を玲香に及ぼすのか、残念ながらテクスト内部の時間は、玲香がiPhoneSE2を修理に出す前に終わっているので、明らかにすることはできないと言わざるをえない。iPhone12と玲香の関係に焦点をあてたとき、本テクストはいわば、玲香の「未来」を暗示することなく終わる。しかし、コロナ禍の先行きの見えなさを引き合いに出すまでもなく、未来とは本来「誰にもわからない」もの、すなわち暗示など本来不可能なものである以上、「人間」の安易な物語化を拒むかのような本テクストのその姿勢は、むしろ正しい力学のなかにあると言っても、おそらく過言ではない。

3.物語におけるアイコン、あるいは「他者」について

本テクストにおける、アイドルグループ・シグナルΣのありかたは、たとえば玲香と真子の以下のやりとりからうかがうことが可能である。

「本マイク」初めて聞く単語が間髪を容れず耳へ襲い掛かってくる。「ごめん、そのあたり、あんまりよくわかってないんだけど」

「ちゃんと音を拾っているマイクです」「音を拾わないマイクってあるの?」「ありますよ。わたし歌唱メンバーじゃないから、ダミーマイク使わされるんですよ。ダミーというか、本物なんですけど、電池抜かれて、電源が入らないようになっていて、だいたい選抜で入ったら本物かダミーかで振り分けられるんです」

ここで真子によって暴露されるのは、複数名からなっているはずのアイドルグループのうち、何名かの「声」という個性が剝奪/剪定されているという事実である。そうして実際、その結実として、玲香はシグナルΣのライブ映像の一部を見たとき、彼女たちの声から、〈それぞれの区別をつけさせないようにしているのではないかと勘ぐるほど、平坦に均され〉たような印象を受けることになる。グループというパッケージは、多様性を内包するというよりはむしろ、全体がひとつの規格品であるかのように個々のありかたを統御する形に機能している、と言える。

また、真子の顔面について、玲香は以下のように描写する。

狭い顔面には、綿密にアイシャドウを塗った深い二重まぶたと、まつげが上下にしっかりと生えている大きな目がふたつも押し込まれていて、たくさんの情報が散らからずにしっかり並んでいた。

一見、美しい、かわいらしい、などという結論を導き出しそうな導入であるが、玲香はそのようには認識せず、〈情報が散らからずにしっかり並んで〉いるという印象に逢着する。(結果としてそれが、本テクストにも字面となってあらわれることは言うまでもない。)〈情報が散らからずに〉、という玲香の印象もまた、統御の効いた形ととらえてよいだろう。これらを踏まえると、必要なものだけを残し余計なものを排除した「整然」として、シグナルΣの、いわば「外形」は構築されている、と言える。

これらをより鋭く言語化しているのが、真子の謹慎中に真子の〈立ち位置〉(無論この表現からして、個性を取りこぼすものだろう)におさまった〈みーたん〉についての描写であろう。

みーたんは(……)子どものようなやわらかい頰を、真子ちゃんのようにシャープにさせていた。写真の中の表情はもちろん、話し方、耳に髪をかける手つきも真子ちゃんを連想させた。というよりも、そのポジションにいると、誰でも真子ちゃんやみーたんのようになるのかもしれなかった。(……)配置と役目に嵌め込まれていたのだと思う。真子ちゃんはそのポジションをみーたんに奪われてしまった。グループの中にはもうきっと、真子ちゃんの立つ場所はどこにも残されていないのだろう。

グループというパッケージは、表情だけでなく話し方や仕草まで「個性」よりは〈立ち位置〉に応じた、すなわち「整然」のなかに規定された「役割」を優先させることを要請する。さらに言うなら、玲香は〈真子ちゃんやみーたんのようになるのかもしれなかった。〉と言っていて、その要請を「所属事務所からの圧力」などではなく、いわば不文律、「暗黙の了解」に従ったものと見なしていることも注目に値するだろう。「暗黙の了解」とは、「一定の周知」の裏返しであるからである。

ここまで見れば、シグナルΣというパッケージについては、たとえば「物語」における「アイコン」――あくまで「物語」における「アイコン」であり、「テクスト」における「人物」などではない――がほとんど象徴的に表現されている、ということが、容易に納得されるであろう。物語の展開のためにだけ奉仕する駒としてのアイコンは、特徴こそ有しているもののそこからはみ出すものは少なく、同じ特徴を有していればいくらでも代替可能――むしろ、物語の「なめらかさ」のためにはいくらでも代替されるものである。すなわち、物語におけるアイコンとは、ある意味においては「人」というもののあらまほしき姿に対して反旗を翻すものである、とも言える。

さて、それでは本作は、アイコンの、アイコンによる、アイコンのためのテクストなのだろうか。そのことを考えるにあたってまず見てみたいのが真子の生活である。

アイドルというパッケージングの外での真子の様子を伝えてくるものとして、まず、真子の部屋のありようがある。真子の部屋は、「整然」というよりはむしろ「雑然」とした感を与えるものであることが明記されている。〈電子レンジ〉に〈貼られ〉た〈粗大ゴミシール〉や〈赤黒い汚れの痕〉、〈さまざまな陸生動物を象った未使用の食器洗い用スポンジ〉、〈セミダブルベッド〉に〈脱ぎ捨てられ〉た〈コートやニット〉、〈対戦カードゲームのデッキや企業ロゴの入ったボールペンや付箋〉、等々。これらの事物から、玲香は〈どこかパースの狂った部屋〉という感触すらも持つ。

加えて真子には盗癖があるという設定が出てくる。アイドルと盗癖という組み合わせは、一見したところきわめてスキャンダラスで、実際作中でも「醜聞」と呼ぶにふさわしいものとして描かれている。これらの真子のありかたは、アイドルというアイコンがアイコンのままアイコンとして機能する物語と本作のあいだには、まぎれもない懸隔が認められると言ってよいだろう。

いっぽうで本作の主人公であり語り手でもある玲香はどうだろうか。たとえば、以下のような述懐も引いてみることで見えるものがある。

どうしてもたったひとりだけで存在を完結できないという事実が幻痛のように噴き出す。(……)わたしは他者から分けてもらったり奪ったりしてきたものの組み合わせであり、それらの総体でしかない。

この箇所に明白に表れているように、玲香は自身を独立した「個」ととらえることができない。それどころか、〈他者から分けてもらったり奪ったりしてきたものの組み合わせであり、それらの総体〉とあるように、そこには「個」のオリジナリティが存在する余地すらもない。これはちょうど、物語におけるアイコンや本テクストにおけるシグナルΣのありようと、ある側面から見たときには、極めて似通ったものとして自身を認識していると言ってよいのではないだろうか。

〈組み合わせの私は、そこから盗まれ続けてもいる。(……)回り回ってわたしたちは同じものでつくられているのかもしれない〉に至って、より問題は深まっていく。ここでは、自己がないのと同様に、厳密な意味での他者、自分とは全く異なる存在としての他者というものまで玲香は喪いかけている。だれもが「物語」に都合のいいアイコンとして消費されるだけであり、おのおのの「声」など有していない存在になりそうなところで、しかしながら、玲香はこのように続ける。

けれど、たとえ盗んだり奪ったりしても、直接返してくれたのは真子ちゃんだけだった。

〈けれど〉という接続を踏まえると、真子は明確にここでは「自分とは全く異なる存在としての他者」として描かれている。そうして、そういった「他者」によって丁重に扱われることにより、玲香もまた「だれかにとっての他者」、すなわち「かけがえのない自己を有する存在」として存在することができるようになったのではないか、という仮説を立てるのは、そこまで難しいことではないだろう。

そのような目線で振り返ってみると、真子とおぼしき人物のコンビニの盗撮動画について、玲香は〈ほとんど真子ちゃんだけど、真子ちゃんかどうかを断定できる権利を誰も持っていない。〉という表現をしている。この箇所を特徴づけているのは、「断定できる証拠」などではなく〈断定できる権利〉という言い回しを用いているである。もちろん、〈断定できる権利〉がないのは「断定できる証拠」がないからであり、両者は密接な関係にあると言えるが、〈権利〉という一歩踏み込んだ言い方をすることにより、真子が、享受者が自由にあつかってもいいキャラクターではなく、「基本的人権」というものを有するひとりの人間であることを同時に浮かび上がらせている。その向き合い方は、十分に節度あるものであろう。

また、真子の盗癖が報道されたあとの様子を、玲香は次のように描写している。

彼女の顔と名前も知らなかったひとたちが彼女を推測のままに語り、わたしやファンの知らない、真子ちゃんと同姓同名の歪な人間がほんの一日、二日のうちに生まれ育ち、そして絶命しかかっていた。

揣摩臆測によって拵えられた真子を〈同姓同名の歪な人間〉と称する玲香の態度は、真子を「消費」する者とは明確に一線を画している。逆に考えれば、揣摩臆測によって真子像ができあがる→その真子像を玲香が言外に否定する、というテクストの構造によって、「真子を消費しない玲香」像が形成される、とも言える。

さて、ふたたび真子へと戻ろう。真子がアイドルでありながら万引きという犯罪をくり返したという事実が有象無象を興奮させたことはすでに引用にて触れた。その反面、渦中にいる真子の周辺には、スキャンダルにつきものまばゆいフラッシュやインタビュー用のマイクといった激しいノイズはなく、不思議な静かさがあることに気づかされる。たとえば玲香は、真子が盗んだものを返してもらうために真子のマンションを訪れた際、〈マスコミやファンが来ているのではないかと身構えたが、目視できる限りではそれらしきひとはいなかった〉と周囲の様子を説明しているし、カウンセリングの様子を話す真子に対しては、〈口を噤み唇を結ぶように閉じて(……)頷き続け〉る。すなわち、言葉で相槌は打っていない。つまり、真子の盗癖は両極端な反応をテクストにおいては同時に示している、と言える。

もうひとつ注目すべきは、謹慎中の真子の顔面の描写である。

顔下半分は、真子ちゃんの一・五倍ほど腫れ上がっていて、ところどころに紫や黄色い痣が広がっている。鼻には血が赤黒く固まったガーゼと肌色のテープが貼り付けられていた。頰や口周りが腫れて硬直しているためうまく発声できないのか、声が前よりも籠もって、嗄れている。

このような状態のため、玲香はエレベーターホールにやってきた真子を真子と認識することができない。つまり、真子は「真子らしさ」を、いわばアイコン性を極限まで奪われていたと言える。いかにもそれっぽく〈推測のままに語〉られ形成され流布している「真子的なもの」と、玲香の描写する実際の真子の姿が対極に配置されていることは、先に述べた「騒々しさ」と「沈黙」の対比がテクスト中に存在していることも考慮に入れると、きわめて意味深長であるように思われる。なぜならそれは、アイコンのアイコンによるアイコンのためのテクストどころか、安易な「物語」への反-指向を意味するからである。

そうして、先の玲香の自己観をも重ね合わせるなら、本作において「物語」とは「盗み/盗まれ」「奪い/奪われ」と極めて近しい位置にあるものと言える。このことが要請するのは、玲香の、真子とのあいだに「盗み/盗まれ」「奪い/奪われ」以外の関係を築きたいという意志である。同じく先に引用した、〈直接返してくれたのは真子ちゃんだけだった〉という文言および「盗み/盗まれ」「奪い/奪われ」いずれも相互的なものであることから敷衍するに、それは、「自分も真子ちゃんに何かを返したいという意志」となるはずである。〈ほんとうの真子ちゃんの語り口〉を〈保護シートの貼られた艶々の画面〉に見出した玲香が〈たじろがないようにするから、こんなふうに打ち明けてほしかった〉と本文中にあるが、〈打ち明けて〉もらったあとに玲香が取るべき行動は何かということを考えてみれば、よりいっそうそれははっきりとするだろう。

以上のことから、『誰にも奪われたくない』とは、安易な物語を拒絶するのと同時に、「あなたと対話をしたい」という強固なメッセージがこめられた表題である、と言うことが可能である。(※註3-1)


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註0-1 児玉雨子『誰にも奪われたくない』(河出書房新社、2021年7月20日)帯文より。

註0-2 ぱいぱいでか美「生々しく張り付いて離れない不安定さ」(https://www.bookbang.jp/review/article/695220、2022年4月17日閲覧)

註0-3 「【Vol.12:児玉雨子】編集者が注目!2022はこの作家を読んでほしい」(https://hon-hikidashi.jp/enjoy/141837/、2022年1月3日、2022年4月17日閲覧)

註1-1 ただし、本作は玲香の一人称で語られる小説であり、その客観性には一定の留保が必要となる。

註2-1 ただし、このセリフを額面通りに受け取るわけにはいかないことは論を俟たない。

註2-2 「新アイフォーンSE発表 アップル、廉価版4年ぶり」(https://www.sankei.com/article/20200416-LXYNPU3WY5PLJMPVEJNEADWYIY/、2020年4月16日、2022年4月16日閲覧)

註3-1 「誰にも奪われたくない」の引用は、児玉雨子『誰にも奪われたくない/凸撃』(河出書房新社、2021年7月20日初版)に基づく。なお、引用者による省略は「(……)」により表し、原テクストの改行については、一部「/」で表した箇所がある。