2023年9月16日土曜日

佐藤哲也「魚」

  佐藤哲也氏の訃報に接したときの気持ちをどう表現すればよいのか、正直なところいまだにわからない。私自身は氏の良い読者であったとは決して言えないだろうけれども、それでも、その作品の質に対して、あまりに評価が低すぎる作家のひとりだったとは思っているし、「ひとりだった」と、過去形でいまでは言わなければならないことに対しては、無念である、というのが心からの思いだ。

 短編集『町 マラキム』を、Kindleでここ数年にわたり少しずつ読んでいた。どこを切っても面白い短編集で、1話読み終えたときの満足度が非常に高く、焦って読まなくても待っていてくれるテクストだ、と思っていた。その思いは、「魚」を読み終えた今も変わらない。おそらく、10年後の、20年後の私が読んでも楽しめる作品群であろう。けれども、このようなすばらしい作品を読むことができて幸せです、と、氏の目の届きうるところで口にするのが間に合わなかったことに対しては、悔いあるいは痛みが残る。

 

 『町 マラキム』所収の「魚」は、謎の巨大な魚(陸でも活動できる)に町に住む人々が食い散らかされるというストーリーを有するテクストである。このようにまとめると、いわゆるホラー小説のように読者の心を撫でてくる小説かと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、実際のところそのタッチはホラーとはほど遠い。しかし、「巨大な魚に町に住む人々が食い散らかされるというストーリー」というまとめ方が、決して恣意的なものではないことは、この作品をお読みになった方にはご納得いただけることだろう。そこからひとつ端的に言える事実はむろんあって、「魚」というテクストは、ひとつのストーリーが(あるいは、ここではジャンルが、と言ってもよいだろう)必然的にもつ強い求心力に溺れないどころか、それを捩じ伏せるようにしてつむがれたテクストである、ということである。

 たとえば、帽子屋の妻が魚に呑み込まれる冒頭に着目してみよう。帽子屋は魚に呑まれた女房の声を聞いたとき、①はじめは〈いつもの小言だろうと思〉うものの、②〈小言にしては途切れがち〉と気づき〈いやな予感を感じ〉、とはいえ、③〈伝票を所定の抽出しにしまい込〉むことを忘れず、④実際に巨大な魚を魚を見ても〈女房がまた得体の知れないことをしでかしたのだと考え〉〈女房を叱〉り、⑤その魚の中に女房を発見してもまずは〈女房を叱り〉、⑥魚が〈おくびを漏らすような具合に口を開け〉〈女房の頭がずるりと動いてなかへ消え〉、⑦はじめて〈悲鳴を上げて前へ飛び出し〉女房の白い手を〈渾身の力で引っ張〉るも〈恐怖に負けて手を放〉してしまう、というのがその経過である。もし本テクストの目指すところが、読者を謎の魚の襲来に対する恐怖に震えさしめることであれば、③以降の展開はまったく別様になってもよいはずだ。(たとえば、いやな予感を感じ、恐る恐る扉を開け台所に入ると、魚に呑み込まれかけている女房を見つけて半狂乱、必死で女房を救い出そうとするも間に合わず、自分も諸共に呑まれてしまう、というのは、「お約束」の1つとして比較的にたやすく想定しうる。)しかし、本作の展開は、③で世界が昨日までの日常と地続きであることをさりげなくアピールし、④⑤では「異常事態」に対する小説の登場人物としては驚くべきほどの鈍感さを示すことで、ヒロイズム的人物造形の否定と、その裏表の関係にある帽子屋の衆愚性を描出する、というものになっている。そうして、その結果とも言うべき⑥⑦においては、〈恐怖に負けて手を放〉してしまうという妻の最期に特に顕著だが、いかにも人間らしい卑小さに着地することとなる。卑小さ、という点で言うのなら、帽子屋と妻の人物設定(若い前途に満ち満ちたカップルなどではなく、妻から小言が頻々と出るくらいには連れ添った)ことも、安っぽいビルドゥングスロマンを排除するのに一役買っている、と見るべきだろう。

 いうならば、アンチ・ホラー、アンチ・ビルドゥングスロマンの要素をもつ――ここでの「アンチ」という語は、もちろん「反」の意味ではあるのだが、既存のタームにやすやすと与しないことへの賛辞と受け取っていただきたい――ということが可能であろう本作だが、アンチ・ミステリーでもある、ということは、滅多矢鱈と帳簿上の謎の記号(実際はお得意様などをあらわしているだけのもの)に意味を見いだそうとする警部補を見れば一目瞭然である。(最期の魚の犠牲者が「安楽椅子」に自身を縛り付け、その挙げ句足から魚に食われる羽目になる、というのも、その一として数えてよいかもしれない。)この警部補の〈怪現象の存在を容易に信じるような人物ではない〉というと気質は、というと、聞こえというか耳触りはいいものの、作品中ではむしろ、今そこにある危機を直視しないという方向に作用し、さらなる犠牲者を産むことにつながっている。その展開はユーモラスであるが、一方で、そのようなユーモアに終始する、つまり警部補が右往左往しているうちに町全体が魚によって壊滅させられてしまうような、しばし非常に多くの書き手が採用したくなってしまうだろう展開になっていないことについても、もちろん言及しておく必要はあろう。(ちなみに、なぜそういう展開を採用したくなるか、というと、きちんと書けば「面白い」ものになることがほとんど「約束」されていると考えてもいいだろう――きちんと書くのに一定のレベルは必要かもしれないが。)そういうどたばたとした面白さを私は否定するものではないけれども、作品として引き比べたうえでの「魚」への評価として、これを「決してただただ低い方へと流れていかないストイックな書きぶり」と言っても、なにほどもおおげさではないはずだ。(転換点となる〈警部補は飲み屋を訪れて帳簿を調べ、そうしているうちに、ふとあることに思い至って警察に戻った。/「わたしのことを嫌っていますね」と警部補が訊ねた。/「いや、そんなことはありません」と署長が答えた。〉という箇所については、もしかするとこのテクストでもっともユーモアとアイロニーが横溢している箇所かもしれない。)

 先程、帽子屋に関連して「衆愚性」という語を用いたが、それはこの小説に通底するものであると言ってよい。短い文と「た」留めの文体の交錯は、遠い未来を見晴るかすには不向きなものであろうことは、佐藤氏はまず間違いなく百も承知のうえで本テクストを編み上げただろうし、終盤も終盤、壁から出かけたところで銃弾に斃れた魚の死体の処理をめぐり、壁に穴を開けることはまかりならんと言った結果、壁の中で魚が腐り店子がいなくなってしまう大家も、まさに近視眼的人物と言っていい。ただし、そういう人物に対するいわば批判的なまなざしの、ひとつの結晶が本作なのか、ということについては、少し保留にしておきたい気持ちが私にはある。すなわち、これはただの批判的なまなざしなどではなく、「人間というのは多くはそこで終わる」というある種の「諦念」に基づいたものではないか、という可能性を考慮したいからだ。「人は歴史に学ぶことができる」ではなく「歴史は繰り返す」寄りの目線、ということであるが。そういえば、佐藤氏の文章には反復すなわち繰り返しがしばしば用いられているが――そのことと紐付けるのは、流石に牽強付会にすぎるというものであろう。

 

 本レビューをどのタイミングでアップするか――そもそもアップをするべきか――という点については非常に迷った。故人の尻馬に乗ってビュー数を稼ぐのは私の本意ではないが、その一方で、遅きに失した言葉をさらに遅らせることに対する躊躇いもあった。結果として言うのなら、このレビューを発表することにより、私が馬脚を顕すことはあろうとも、佐藤氏の作品に瑕をつけることは決してかなわないだろう、という判断から、お蔵入りにすることはやめた。佐藤氏の作品の魅力を伝える一助となっても、もはや安易にそのことを「幸いである」とは心苦しくも言えないわけではあるが、読み継がれるべき作品を次代へと繋ぐ糊のような役目でも果たせるのなら、と思う。

 最後になってしまったが、佐藤哲也さんの魂の安からんことを、心よりお祈り申し上げたいと思う。