2023年8月8日火曜日

シャーロット・ウェルズ「aftersun/アフターサン」

 11歳の娘・ソフィと父・カラム(離婚してソフィは母に引き取られている)のトルコでのヴァケーションを、ソフィが撮影したビデオの映像や、なぜか泣いている父・カラムの映像、大人になったソフィの映像などを差し挟みながら一編の「映画」として成立させた「aftersun/アフターサン」について、へんてこな話、程度の予備知識で見たのであるが、聞きしにまさるへんてこぶりで、当惑する、というよりもうれしくなった。安易な理解を拒む、というのは、一つの美点となりうるからである。

さて、筆者がいったいどのあたりをへんてこと思ったのか、順番に振り返ってみよう。

まず、トルコのホテルについたカラムが部屋からツインで予約したはずなのにベッドが1つしかないと固定電話からフロントにかけているシーンがあるのだが、固定電話からかけているにもかかわらず、立ち上がってソフィのベッドを直してやっているとおぼしきシーン。電話のコード、そんなに長かったっけ? という点について違和感をおぼえた。

それから、ソフィが大人向けの雑誌を読んでいる隣のレストルームでカラムがギプスを外しているのだけれども、そのほぼ真ん中で分かたれた2つの部屋の色彩設計の違いに吃驚し、ああ、これはソフィは実は死んでいて、カラムが思い出の旅に来ているのかな、と思った。

そのように見ていくと、カラムがソフィに誰かに襲われたときの抵抗のしかたを真剣に真剣に教えているのもにわかに納得がいき、そうして、実際にソフィが誰かに口をふさがれたときにはすべてがつながったように思った。けれども、じつはソフィの口をふさいだのは、いっしょにバイクゲームで遊んだマイケルであり、2人が夜のプールへ行ってキスする、という展開になったときは、またしてもあれ? と思った。

そうこうしているうちに、大人になったソフィも出てきて、え、それじゃあもしかして死んだのはカラムのほう? ……と思ったけれども(そうして、ブログなどで様々な方が指摘しておられるように、ラストシーンからそれを汲み取れるというのはわかる。ダンスホールもそうだけど、ダンスホールに至る廊下のさみしさ。)個人的には、どうもその見方もしっくりこない部分がないではない。(ただしそれは、私がずっとソフィのほうを死んだものと決めつけていたからだ、という可能性があることは否定しない。)記憶と事実、あるいはこの宇宙とそれと平行なあの宇宙的なものを、そのありかたそのままに、1つに詰め込んだ作品だとは思うのだが。

ワンカットは流れ流れるように比較的短く、緊張感は凝縮されるもののすぐに発散され、あたかも記憶のように断片的だ。メタ的な、という言葉で逃げてしまえば楽であるけれども、これはちょっともう1度どうなっているのか掘り起こしたい作品である。


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作品情報:
シャーロット・ウェルズ『aftersun/アフターサン』2022年