2023年8月8日火曜日

サマセット・モーム「雨」

 世の中にはいくつも、「実は……」で開始し、頰を羞恥でぽっと赤らめなければすることができない告白、というものがあるだろう。たとえば、「不勉強にしてサマセット・モームをいままで読んだことがなかった」などというのは、その好例と言っても良いのではないか。さてそうして、「重い腰を上げ」と言ってはさすがに言い過ぎかもしれない退嬰を経て、このたび読み終えたのが、国立国会図書館デジタルコレクションに収載されている、朱牟田夏雄訳の「雨」である。

もう古典と言って十二分に差し支えない作品であろうから、最後まで所謂「ネタばれ」を意に介することなく筋を述べてしまおう。マクフェイル医師とその妻、デイヴィッドスン牧師(宣教師)とその妻は、麻疹の流行のため、熱帯とおぼしき地方の原住民(本文では今日的に不適切な用語が用いられているが、まさかそれを流用するわけにもゆくまい)の島で足止めを食う。おなじ宿に泊まっていたトムスン嬢はあばずれで、宣教師は彼女を矯正しようと外堀を埋めていき、トムスン嬢は恐怖から人が変わったようになるが、宣教師が死に、トムスン嬢はもとのあばずれ風に戻り、医師は「すべてを理解する」。

この小説の面白さは、宣教師の信心の(一見ストイックに見える)暴走ぶりにあると言っても過言ではないだろう。宣教師にとって信心の深さは、自身が無辜であることを担保するものとなっていて、かるがゆえに彼は、自分にとっての快/不快でしかないものが、すなわち神の御心に適うものと信じて疑っていないようだ。たとえば、原住民に対するコロニアルを絵に描いたような対応や、トムスン嬢が刑務所に入れられてしまうことを知りながらもサンフランシスコに送り返そうとするふるまいなどがそれに値する。このように「宣教師」を描くことが、多くのキリスト者にとって愉快なものでないだろうという想像が決して困難なものではないことは、どれだけ補足してもしすぎることはない。

ただし同時に、宣教師の何もかもを振り切った無敵ぶりは、確かに「神」のような絶対的なものに背骨を支えていてもらわなくては不可能なものであるように見えることもまた、同時に看取しうるように思う。見ているもの、そばにいるものを、思わず怯ませずにはおかないような、作中の宣教師のふるまいかた! それを端的に示すエピソードとして、宣教師たちが座を外したあとも、なんとなくトランプのような遊戯をするのが憚られるというマクフェイル夫妻の心情描写は、個人的には非常にうまいと感じられた。

作中で降りつづく、故国のやわらかなそれとは違う熱帯地方の雨季の「雨」によって、関係と空間に閉鎖性を創出し、入り込む他者性を最小限におさえているという点も、宣教師の人物像の揺るぎなさに一役買っている。マクフェイル医師が、妻を通じてでしかデイヴィッドスン令夫人にデイヴィッドスン宣教師の死を伝えられない情けなさと、冒頭附近に出てくる、デイヴィッドスン令夫人がマクフェイル医師に直接「原住民のおぞましい結婚の風習」を伝えられずにマクフェイル令夫人を経由する、というのも、当時の男/女をシニカルに描いているようで、小説的魅力に満ちている。

 以上を踏まえ、総合的には大変面白く読めた一作だった。該当書籍には他に「赤毛」「マキントッシ」の2作も併録されているが、こちらはどんな作品なのだろうか、非常に楽しみである。


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作品情報:
サマセット・モーム、朱牟田夏雄 訳『雨・赤毛 他一篇』岩波文庫、1962年