2023年8月9日水曜日

大滝のぐれ「ロードキル」

  大滝のぐれ氏の「ロードキル」が収められた『溢血.ep』は、いわゆる出版社から刊行されている商業的な小説ではなく、ZINEあるいは同人誌の系譜に属する書籍である。私もこの本は、確かTextーRevolutionsという文章系を中心としたZINE/同人誌の即売イベントで購入したはずだ。斯様な事情から、今回取り上げる「ロードキル」を多くの方にお読みいただくのはむずかしいのかもしれないと危惧していたのだが(もちろん、入手が困難なテクストを書評で取り上げることは無意味ではない。たとえば今回は、大滝氏をご存じない方にその魅力をご紹介できるという点からすれば、今後の氏の活動の掩護射撃くらいにはなるだろう――なってほしい)、ぐぐったところ、大滝氏のカクヨムのページ(URL:https://kakuyomu.jp/works/1177354054886277911/episodes/1177354054887420474)にも掲載されていた。300字程度の短いテクストであるので、次の段落で私によってねたを割られているあらすじをお読みになる前に、ぜひお目通しをいただきたい。

 「ロードキル」は、ごくごく簡単にまとめると、「妊娠中の妻が待つ家への帰路、妊娠中の狸を車で轢いてしまった男の話」となるだろう。しかしそれでは、本作のほとんど何をも語ったことにならないのもまた確かである。

 第一に、語り手の問題がある。本作の語り手は、「狸を車で轢いてしまった男」ではなく、「車に轢かれた狸」である。その狸が、たとえば〈私の死体を見るとあなたはそうつぶやいた。〉と言うように、男の様子を描写する。狸はもはや死者であり、その声からは生きている者特有のなまなましさが薄れ、作品はあたかも二人称小説のようだ。ただし、二人称小説が、おそらくは「神」に近い視点から語られるテクストであるのに対し、本作は(繰り返しになるが)「死者」による語りであり、そこにひとつのねじれを見て取るのはさほどに難しいことではないだろう。

 第二に本作の特徴として挙げたいのは、省略の巧みさである。具体的には、〈心の中であなたは言い訳をする。(……)一〇個もそれらが並べられたころには、あなたは妻の待つ家にいた。〉という箇所がそれに該当する。(この「一〇」という数字が、いわゆる「十月十日」から導かれたものかどうかは判定はできないが、場合によってはそこまで重ね合わせて考えてみると、よりテクストが深まりを見せる可能性はある。)おそらく男はテレポートをしたわけではないので、この箇所をごくごく一般的に描写するのなら、たとえば以下のようになるだろう。〈心の中であなたは言い訳をしながら車を運転する。(……)一〇個ほどそれらが並べられたところで、あなたは妻の待つ家に着いた。〉大滝氏のテクストがすぐれているのは、男が狸を轢いてしまいショック状態にあるということが、先ほど引用した描写ときれいに重なる点だ。すなわち、単に文章上のテクニックであるということにとどまらず、帰宅するまでの男の行動が、意識ではなく習慣としての動作に基づいたもの、という内容面での理路があり、それがきちんと描写の省略という形で文体に作用したものである、と、相互関係を指摘できる、ということであるが。

 第三に本作の美点としてあげたいのは、男が轢いてしまった動物を、「妊娠をしている狸」に設定している点である。まず、「妊娠をしている」という点については、言うまでもなく、〈「やだ縁起悪いなあ。もうすぐなのに」〉という男の妻のセリフをより業の深いものにすることに一役買う。次に、たとえば「鹿」や、たとえば「野犬」ではなく、「狸」であるというということも、おそらく、ではあるが等閑視しないほうがよいだろう。「ロードキル」の舞台は明らかではないが、少なくとも本作は、日本語で書かれたテクストであり、日本語という言語は日本の文化と切り結んでいるものである。そうして、日本の文化においては、「狸は人を化かすものである」という視点はごくごく一般的なものであり、そういう価値観越しにテクストを透かし見ることが良いこととは必ずしも言えない場合も多いものの、「ロードキル」について言うのなら、斯様な日本文化的な視点を補助線に引いてみたとき、引き出せる魅力があるのではないだろうか。すなわち、本文2行めにある〈私の死体〉という語を初読ではまず「人間の死体」と誤認してしまうだろうこと、「ロードキル」の語りが「流暢な人間の言葉」によるものであることと相俟って、「狸」を「人間の似姿」と見てしまうということである。それはむろん、狸を轢いたショックを人間を轢いたショックに限りなく近づける。のみならず、この「人間」を「成人」と言い換えてみたとき、男の妻の腹の中ですくすく育っているものもまた「似姿」であるといえる。

 死者となって、自身を轢いた男をごくごく自然な動作で追いかけて男を語り続ける「似姿」としての狸と、胎児という「似姿」。ここまで連想を働かせれば、作品中にただよう不穏はいよいよ深く、もしこのテクストにつづきがあったのならば、たとえば男の妻が狸の子供を産む、という展開でも、おそらく不自然さはない。けれども、テクストは男の中にすべての秘密を匿って幕をおろす。ホラーや伝奇の世界へまっしぐらに雪崩れ込むことはなく、少なくとも男(および男の妻)は、リアルの世界に地に足をつけたままで。「ロードキル」という、社会問題化している現象がタイトルになっていることも、おそらく「私たちがよく知っている現実を生きる人」を描くことに対し、相乗的に作用しているだろう。それでも、耳を澄ませれば聞こえてくるのは死者による語りであり、読者は「あちら」と「こちら」の間に広がる中空にとどめおかれ、揺蕩いつづけることを余儀なくされる。その点もまた、「ロードキル」というテクストの有するおおきな凄みであり、読者のひとりとして私は、何度もその構築された不安定さに身をゆだねたいと思うのである。


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作品情報:
大滝のぐれ『溢血.ep』ウユニのツチブタ、2020年

2023年8月8日火曜日

サマセット・モーム「雨」

 世の中にはいくつも、「実は……」で開始し、頰を羞恥でぽっと赤らめなければすることができない告白、というものがあるだろう。たとえば、「不勉強にしてサマセット・モームをいままで読んだことがなかった」などというのは、その好例と言っても良いのではないか。さてそうして、「重い腰を上げ」と言ってはさすがに言い過ぎかもしれない退嬰を経て、このたび読み終えたのが、国立国会図書館デジタルコレクションに収載されている、朱牟田夏雄訳の「雨」である。

もう古典と言って十二分に差し支えない作品であろうから、最後まで所謂「ネタばれ」を意に介することなく筋を述べてしまおう。マクフェイル医師とその妻、デイヴィッドスン牧師(宣教師)とその妻は、麻疹の流行のため、熱帯とおぼしき地方の原住民(本文では今日的に不適切な用語が用いられているが、まさかそれを流用するわけにもゆくまい)の島で足止めを食う。おなじ宿に泊まっていたトムスン嬢はあばずれで、宣教師は彼女を矯正しようと外堀を埋めていき、トムスン嬢は恐怖から人が変わったようになるが、宣教師が死に、トムスン嬢はもとのあばずれ風に戻り、医師は「すべてを理解する」。

この小説の面白さは、宣教師の信心の(一見ストイックに見える)暴走ぶりにあると言っても過言ではないだろう。宣教師にとって信心の深さは、自身が無辜であることを担保するものとなっていて、かるがゆえに彼は、自分にとっての快/不快でしかないものが、すなわち神の御心に適うものと信じて疑っていないようだ。たとえば、原住民に対するコロニアルを絵に描いたような対応や、トムスン嬢が刑務所に入れられてしまうことを知りながらもサンフランシスコに送り返そうとするふるまいなどがそれに値する。このように「宣教師」を描くことが、多くのキリスト者にとって愉快なものでないだろうという想像が決して困難なものではないことは、どれだけ補足してもしすぎることはない。

ただし同時に、宣教師の何もかもを振り切った無敵ぶりは、確かに「神」のような絶対的なものに背骨を支えていてもらわなくては不可能なものであるように見えることもまた、同時に看取しうるように思う。見ているもの、そばにいるものを、思わず怯ませずにはおかないような、作中の宣教師のふるまいかた! それを端的に示すエピソードとして、宣教師たちが座を外したあとも、なんとなくトランプのような遊戯をするのが憚られるというマクフェイル夫妻の心情描写は、個人的には非常にうまいと感じられた。

作中で降りつづく、故国のやわらかなそれとは違う熱帯地方の雨季の「雨」によって、関係と空間に閉鎖性を創出し、入り込む他者性を最小限におさえているという点も、宣教師の人物像の揺るぎなさに一役買っている。マクフェイル医師が、妻を通じてでしかデイヴィッドスン令夫人にデイヴィッドスン宣教師の死を伝えられない情けなさと、冒頭附近に出てくる、デイヴィッドスン令夫人がマクフェイル医師に直接「原住民のおぞましい結婚の風習」を伝えられずにマクフェイル令夫人を経由する、というのも、当時の男/女をシニカルに描いているようで、小説的魅力に満ちている。

 以上を踏まえ、総合的には大変面白く読めた一作だった。該当書籍には他に「赤毛」「マキントッシ」の2作も併録されているが、こちらはどんな作品なのだろうか、非常に楽しみである。


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作品情報:
サマセット・モーム、朱牟田夏雄 訳『雨・赤毛 他一篇』岩波文庫、1962年

シャーロット・ウェルズ「aftersun/アフターサン」

 11歳の娘・ソフィと父・カラム(離婚してソフィは母に引き取られている)のトルコでのヴァケーションを、ソフィが撮影したビデオの映像や、なぜか泣いている父・カラムの映像、大人になったソフィの映像などを差し挟みながら一編の「映画」として成立させた「aftersun/アフターサン」について、へんてこな話、程度の予備知識で見たのであるが、聞きしにまさるへんてこぶりで、当惑する、というよりもうれしくなった。安易な理解を拒む、というのは、一つの美点となりうるからである。

さて、筆者がいったいどのあたりをへんてこと思ったのか、順番に振り返ってみよう。

まず、トルコのホテルについたカラムが部屋からツインで予約したはずなのにベッドが1つしかないと固定電話からフロントにかけているシーンがあるのだが、固定電話からかけているにもかかわらず、立ち上がってソフィのベッドを直してやっているとおぼしきシーン。電話のコード、そんなに長かったっけ? という点について違和感をおぼえた。

それから、ソフィが大人向けの雑誌を読んでいる隣のレストルームでカラムがギプスを外しているのだけれども、そのほぼ真ん中で分かたれた2つの部屋の色彩設計の違いに吃驚し、ああ、これはソフィは実は死んでいて、カラムが思い出の旅に来ているのかな、と思った。

そのように見ていくと、カラムがソフィに誰かに襲われたときの抵抗のしかたを真剣に真剣に教えているのもにわかに納得がいき、そうして、実際にソフィが誰かに口をふさがれたときにはすべてがつながったように思った。けれども、じつはソフィの口をふさいだのは、いっしょにバイクゲームで遊んだマイケルであり、2人が夜のプールへ行ってキスする、という展開になったときは、またしてもあれ? と思った。

そうこうしているうちに、大人になったソフィも出てきて、え、それじゃあもしかして死んだのはカラムのほう? ……と思ったけれども(そうして、ブログなどで様々な方が指摘しておられるように、ラストシーンからそれを汲み取れるというのはわかる。ダンスホールもそうだけど、ダンスホールに至る廊下のさみしさ。)個人的には、どうもその見方もしっくりこない部分がないではない。(ただしそれは、私がずっとソフィのほうを死んだものと決めつけていたからだ、という可能性があることは否定しない。)記憶と事実、あるいはこの宇宙とそれと平行なあの宇宙的なものを、そのありかたそのままに、1つに詰め込んだ作品だとは思うのだが。

ワンカットは流れ流れるように比較的短く、緊張感は凝縮されるもののすぐに発散され、あたかも記憶のように断片的だ。メタ的な、という言葉で逃げてしまえば楽であるけれども、これはちょっともう1度どうなっているのか掘り起こしたい作品である。


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作品情報:
シャーロット・ウェルズ『aftersun/アフターサン』2022年


マリヤム・トゥザニ「青いカフタンの仕立て屋」

 やわらかなカフタン用の青い布からやわらかそうな毛の生えた腕へ、というオープニングのシークエンスがまず印象的な「青いカフタンの仕立て屋」について、あらすじをまずは述べておこう。同性愛的指向を持つ仕立て屋のハリムの元に弟子入りしたユーセフ。あるとき、店を切り盛りしておりハリムの妻・ミナ(乳がんの予後が悪く弱っている)がピンクのサテンの布がなくなったといい、ユーセフを犯人扱いする。ユーセフは気にするそぶりもないどころかハリムに対して愛していると言うが、ハリムは応えずユーセフは店をやめる。ミナは日ごとに弱っていく中、サテンは自分が誤って返品していたことに気づくがユーセフにはそれを言えないでいる。1週間店が開いていないことに気づいたユーセフはハリムの元を訪れふたたび助手として働くようになり、ミナはサテンの件をようやく詫びることができ、自宅でハリムとユーセフは仕事をつづけていたが、ミナはついに亡くなり、ハリムは彼女に白衣ではなく彼女が「私も結婚式にこんな服を着たかった」と言っていたオーダー品のカフタンを着せて柩に載せ街を運ぶ――。

 本作をビシッと引き締めているのは、なんといってもミナ役のルブナ・アザバルのしっかりとしたまなざしではないだろうか。ハリムよりもユーセフよりも、断然決然としていて意志深く、客あしらいのうまさなどとも相俟って、いかにもミナを強い女として描くことに成功している。乳がんを患い弱って生きながらもジョークを忘れないなどというのは、まさにその好例だろう。そうして、そんなミナをどのようにとらえるかによって、実は本作の政治的な評価はけっこう揺らぐのではないか、と思う。

 私は本作のハリムとミナの関係を、当初は性などものともしない愛を築き上げてきた2人、というように看た。しかしそれをミナが果たして望んでいたのか? ということにまで考えをめぐらせると(ミナのほうからハリムを性的にと言っていいだろう愛撫するシーンがある)、これはきわめて独善的なゲイの物語になってしまいうるのではないか? それでも、ミナの何ひとつあきらめていないような強いまなざしと、ハリムのすべてをあきらめたようなまなざしを比較すると、どうしても当初の見方に戻ってしまう自分がいる。おそらく「それ以上」は表現されていない。そこをどこまで汲み取るのが観衆の作法なのか? 答えはまだ出ない。


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作品情報:マリヤム・トゥザニ『青いカフタンの仕立て屋』2022年