2023年9月16日土曜日

佐藤哲也「魚」

  佐藤哲也氏の訃報に接したときの気持ちをどう表現すればよいのか、正直なところいまだにわからない。私自身は氏の良い読者であったとは決して言えないだろうけれども、それでも、その作品の質に対して、あまりに評価が低すぎる作家のひとりだったとは思っているし、「ひとりだった」と、過去形でいまでは言わなければならないことに対しては、無念である、というのが心からの思いだ。

 短編集『町 マラキム』を、Kindleでここ数年にわたり少しずつ読んでいた。どこを切っても面白い短編集で、1話読み終えたときの満足度が非常に高く、焦って読まなくても待っていてくれるテクストだ、と思っていた。その思いは、「魚」を読み終えた今も変わらない。おそらく、10年後の、20年後の私が読んでも楽しめる作品群であろう。けれども、このようなすばらしい作品を読むことができて幸せです、と、氏の目の届きうるところで口にするのが間に合わなかったことに対しては、悔いあるいは痛みが残る。

 

 『町 マラキム』所収の「魚」は、謎の巨大な魚(陸でも活動できる)に町に住む人々が食い散らかされるというストーリーを有するテクストである。このようにまとめると、いわゆるホラー小説のように読者の心を撫でてくる小説かと思われる方もいらっしゃるかもしれないが、実際のところそのタッチはホラーとはほど遠い。しかし、「巨大な魚に町に住む人々が食い散らかされるというストーリー」というまとめ方が、決して恣意的なものではないことは、この作品をお読みになった方にはご納得いただけることだろう。そこからひとつ端的に言える事実はむろんあって、「魚」というテクストは、ひとつのストーリーが(あるいは、ここではジャンルが、と言ってもよいだろう)必然的にもつ強い求心力に溺れないどころか、それを捩じ伏せるようにしてつむがれたテクストである、ということである。

 たとえば、帽子屋の妻が魚に呑み込まれる冒頭に着目してみよう。帽子屋は魚に呑まれた女房の声を聞いたとき、①はじめは〈いつもの小言だろうと思〉うものの、②〈小言にしては途切れがち〉と気づき〈いやな予感を感じ〉、とはいえ、③〈伝票を所定の抽出しにしまい込〉むことを忘れず、④実際に巨大な魚を魚を見ても〈女房がまた得体の知れないことをしでかしたのだと考え〉〈女房を叱〉り、⑤その魚の中に女房を発見してもまずは〈女房を叱り〉、⑥魚が〈おくびを漏らすような具合に口を開け〉〈女房の頭がずるりと動いてなかへ消え〉、⑦はじめて〈悲鳴を上げて前へ飛び出し〉女房の白い手を〈渾身の力で引っ張〉るも〈恐怖に負けて手を放〉してしまう、というのがその経過である。もし本テクストの目指すところが、読者を謎の魚の襲来に対する恐怖に震えさしめることであれば、③以降の展開はまったく別様になってもよいはずだ。(たとえば、いやな予感を感じ、恐る恐る扉を開け台所に入ると、魚に呑み込まれかけている女房を見つけて半狂乱、必死で女房を救い出そうとするも間に合わず、自分も諸共に呑まれてしまう、というのは、「お約束」の1つとして比較的にたやすく想定しうる。)しかし、本作の展開は、③で世界が昨日までの日常と地続きであることをさりげなくアピールし、④⑤では「異常事態」に対する小説の登場人物としては驚くべきほどの鈍感さを示すことで、ヒロイズム的人物造形の否定と、その裏表の関係にある帽子屋の衆愚性を描出する、というものになっている。そうして、その結果とも言うべき⑥⑦においては、〈恐怖に負けて手を放〉してしまうという妻の最期に特に顕著だが、いかにも人間らしい卑小さに着地することとなる。卑小さ、という点で言うのなら、帽子屋と妻の人物設定(若い前途に満ち満ちたカップルなどではなく、妻から小言が頻々と出るくらいには連れ添った)ことも、安っぽいビルドゥングスロマンを排除するのに一役買っている、と見るべきだろう。

 いうならば、アンチ・ホラー、アンチ・ビルドゥングスロマンの要素をもつ――ここでの「アンチ」という語は、もちろん「反」の意味ではあるのだが、既存のタームにやすやすと与しないことへの賛辞と受け取っていただきたい――ということが可能であろう本作だが、アンチ・ミステリーでもある、ということは、滅多矢鱈と帳簿上の謎の記号(実際はお得意様などをあらわしているだけのもの)に意味を見いだそうとする警部補を見れば一目瞭然である。(最期の魚の犠牲者が「安楽椅子」に自身を縛り付け、その挙げ句足から魚に食われる羽目になる、というのも、その一として数えてよいかもしれない。)この警部補の〈怪現象の存在を容易に信じるような人物ではない〉というと気質は、というと、聞こえというか耳触りはいいものの、作品中ではむしろ、今そこにある危機を直視しないという方向に作用し、さらなる犠牲者を産むことにつながっている。その展開はユーモラスであるが、一方で、そのようなユーモアに終始する、つまり警部補が右往左往しているうちに町全体が魚によって壊滅させられてしまうような、しばし非常に多くの書き手が採用したくなってしまうだろう展開になっていないことについても、もちろん言及しておく必要はあろう。(ちなみに、なぜそういう展開を採用したくなるか、というと、きちんと書けば「面白い」ものになることがほとんど「約束」されていると考えてもいいだろう――きちんと書くのに一定のレベルは必要かもしれないが。)そういうどたばたとした面白さを私は否定するものではないけれども、作品として引き比べたうえでの「魚」への評価として、これを「決してただただ低い方へと流れていかないストイックな書きぶり」と言っても、なにほどもおおげさではないはずだ。(転換点となる〈警部補は飲み屋を訪れて帳簿を調べ、そうしているうちに、ふとあることに思い至って警察に戻った。/「わたしのことを嫌っていますね」と警部補が訊ねた。/「いや、そんなことはありません」と署長が答えた。〉という箇所については、もしかするとこのテクストでもっともユーモアとアイロニーが横溢している箇所かもしれない。)

 先程、帽子屋に関連して「衆愚性」という語を用いたが、それはこの小説に通底するものであると言ってよい。短い文と「た」留めの文体の交錯は、遠い未来を見晴るかすには不向きなものであろうことは、佐藤氏はまず間違いなく百も承知のうえで本テクストを編み上げただろうし、終盤も終盤、壁から出かけたところで銃弾に斃れた魚の死体の処理をめぐり、壁に穴を開けることはまかりならんと言った結果、壁の中で魚が腐り店子がいなくなってしまう大家も、まさに近視眼的人物と言っていい。ただし、そういう人物に対するいわば批判的なまなざしの、ひとつの結晶が本作なのか、ということについては、少し保留にしておきたい気持ちが私にはある。すなわち、これはただの批判的なまなざしなどではなく、「人間というのは多くはそこで終わる」というある種の「諦念」に基づいたものではないか、という可能性を考慮したいからだ。「人は歴史に学ぶことができる」ではなく「歴史は繰り返す」寄りの目線、ということであるが。そういえば、佐藤氏の文章には反復すなわち繰り返しがしばしば用いられているが――そのことと紐付けるのは、流石に牽強付会にすぎるというものであろう。

 

 本レビューをどのタイミングでアップするか――そもそもアップをするべきか――という点については非常に迷った。故人の尻馬に乗ってビュー数を稼ぐのは私の本意ではないが、その一方で、遅きに失した言葉をさらに遅らせることに対する躊躇いもあった。結果として言うのなら、このレビューを発表することにより、私が馬脚を顕すことはあろうとも、佐藤氏の作品に瑕をつけることは決してかなわないだろう、という判断から、お蔵入りにすることはやめた。佐藤氏の作品の魅力を伝える一助となっても、もはや安易にそのことを「幸いである」とは心苦しくも言えないわけではあるが、読み継がれるべき作品を次代へと繋ぐ糊のような役目でも果たせるのなら、と思う。

 最後になってしまったが、佐藤哲也さんの魂の安からんことを、心よりお祈り申し上げたいと思う。

2023年8月9日水曜日

大滝のぐれ「ロードキル」

  大滝のぐれ氏の「ロードキル」が収められた『溢血.ep』は、いわゆる出版社から刊行されている商業的な小説ではなく、ZINEあるいは同人誌の系譜に属する書籍である。私もこの本は、確かTextーRevolutionsという文章系を中心としたZINE/同人誌の即売イベントで購入したはずだ。斯様な事情から、今回取り上げる「ロードキル」を多くの方にお読みいただくのはむずかしいのかもしれないと危惧していたのだが(もちろん、入手が困難なテクストを書評で取り上げることは無意味ではない。たとえば今回は、大滝氏をご存じない方にその魅力をご紹介できるという点からすれば、今後の氏の活動の掩護射撃くらいにはなるだろう――なってほしい)、ぐぐったところ、大滝氏のカクヨムのページ(URL:https://kakuyomu.jp/works/1177354054886277911/episodes/1177354054887420474)にも掲載されていた。300字程度の短いテクストであるので、次の段落で私によってねたを割られているあらすじをお読みになる前に、ぜひお目通しをいただきたい。

 「ロードキル」は、ごくごく簡単にまとめると、「妊娠中の妻が待つ家への帰路、妊娠中の狸を車で轢いてしまった男の話」となるだろう。しかしそれでは、本作のほとんど何をも語ったことにならないのもまた確かである。

 第一に、語り手の問題がある。本作の語り手は、「狸を車で轢いてしまった男」ではなく、「車に轢かれた狸」である。その狸が、たとえば〈私の死体を見るとあなたはそうつぶやいた。〉と言うように、男の様子を描写する。狸はもはや死者であり、その声からは生きている者特有のなまなましさが薄れ、作品はあたかも二人称小説のようだ。ただし、二人称小説が、おそらくは「神」に近い視点から語られるテクストであるのに対し、本作は(繰り返しになるが)「死者」による語りであり、そこにひとつのねじれを見て取るのはさほどに難しいことではないだろう。

 第二に本作の特徴として挙げたいのは、省略の巧みさである。具体的には、〈心の中であなたは言い訳をする。(……)一〇個もそれらが並べられたころには、あなたは妻の待つ家にいた。〉という箇所がそれに該当する。(この「一〇」という数字が、いわゆる「十月十日」から導かれたものかどうかは判定はできないが、場合によってはそこまで重ね合わせて考えてみると、よりテクストが深まりを見せる可能性はある。)おそらく男はテレポートをしたわけではないので、この箇所をごくごく一般的に描写するのなら、たとえば以下のようになるだろう。〈心の中であなたは言い訳をしながら車を運転する。(……)一〇個ほどそれらが並べられたところで、あなたは妻の待つ家に着いた。〉大滝氏のテクストがすぐれているのは、男が狸を轢いてしまいショック状態にあるということが、先ほど引用した描写ときれいに重なる点だ。すなわち、単に文章上のテクニックであるということにとどまらず、帰宅するまでの男の行動が、意識ではなく習慣としての動作に基づいたもの、という内容面での理路があり、それがきちんと描写の省略という形で文体に作用したものである、と、相互関係を指摘できる、ということであるが。

 第三に本作の美点としてあげたいのは、男が轢いてしまった動物を、「妊娠をしている狸」に設定している点である。まず、「妊娠をしている」という点については、言うまでもなく、〈「やだ縁起悪いなあ。もうすぐなのに」〉という男の妻のセリフをより業の深いものにすることに一役買う。次に、たとえば「鹿」や、たとえば「野犬」ではなく、「狸」であるというということも、おそらく、ではあるが等閑視しないほうがよいだろう。「ロードキル」の舞台は明らかではないが、少なくとも本作は、日本語で書かれたテクストであり、日本語という言語は日本の文化と切り結んでいるものである。そうして、日本の文化においては、「狸は人を化かすものである」という視点はごくごく一般的なものであり、そういう価値観越しにテクストを透かし見ることが良いこととは必ずしも言えない場合も多いものの、「ロードキル」について言うのなら、斯様な日本文化的な視点を補助線に引いてみたとき、引き出せる魅力があるのではないだろうか。すなわち、本文2行めにある〈私の死体〉という語を初読ではまず「人間の死体」と誤認してしまうだろうこと、「ロードキル」の語りが「流暢な人間の言葉」によるものであることと相俟って、「狸」を「人間の似姿」と見てしまうということである。それはむろん、狸を轢いたショックを人間を轢いたショックに限りなく近づける。のみならず、この「人間」を「成人」と言い換えてみたとき、男の妻の腹の中ですくすく育っているものもまた「似姿」であるといえる。

 死者となって、自身を轢いた男をごくごく自然な動作で追いかけて男を語り続ける「似姿」としての狸と、胎児という「似姿」。ここまで連想を働かせれば、作品中にただよう不穏はいよいよ深く、もしこのテクストにつづきがあったのならば、たとえば男の妻が狸の子供を産む、という展開でも、おそらく不自然さはない。けれども、テクストは男の中にすべての秘密を匿って幕をおろす。ホラーや伝奇の世界へまっしぐらに雪崩れ込むことはなく、少なくとも男(および男の妻)は、リアルの世界に地に足をつけたままで。「ロードキル」という、社会問題化している現象がタイトルになっていることも、おそらく「私たちがよく知っている現実を生きる人」を描くことに対し、相乗的に作用しているだろう。それでも、耳を澄ませれば聞こえてくるのは死者による語りであり、読者は「あちら」と「こちら」の間に広がる中空にとどめおかれ、揺蕩いつづけることを余儀なくされる。その点もまた、「ロードキル」というテクストの有するおおきな凄みであり、読者のひとりとして私は、何度もその構築された不安定さに身をゆだねたいと思うのである。


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作品情報:
大滝のぐれ『溢血.ep』ウユニのツチブタ、2020年

2023年8月8日火曜日

サマセット・モーム「雨」

 世の中にはいくつも、「実は……」で開始し、頰を羞恥でぽっと赤らめなければすることができない告白、というものがあるだろう。たとえば、「不勉強にしてサマセット・モームをいままで読んだことがなかった」などというのは、その好例と言っても良いのではないか。さてそうして、「重い腰を上げ」と言ってはさすがに言い過ぎかもしれない退嬰を経て、このたび読み終えたのが、国立国会図書館デジタルコレクションに収載されている、朱牟田夏雄訳の「雨」である。

もう古典と言って十二分に差し支えない作品であろうから、最後まで所謂「ネタばれ」を意に介することなく筋を述べてしまおう。マクフェイル医師とその妻、デイヴィッドスン牧師(宣教師)とその妻は、麻疹の流行のため、熱帯とおぼしき地方の原住民(本文では今日的に不適切な用語が用いられているが、まさかそれを流用するわけにもゆくまい)の島で足止めを食う。おなじ宿に泊まっていたトムスン嬢はあばずれで、宣教師は彼女を矯正しようと外堀を埋めていき、トムスン嬢は恐怖から人が変わったようになるが、宣教師が死に、トムスン嬢はもとのあばずれ風に戻り、医師は「すべてを理解する」。

この小説の面白さは、宣教師の信心の(一見ストイックに見える)暴走ぶりにあると言っても過言ではないだろう。宣教師にとって信心の深さは、自身が無辜であることを担保するものとなっていて、かるがゆえに彼は、自分にとっての快/不快でしかないものが、すなわち神の御心に適うものと信じて疑っていないようだ。たとえば、原住民に対するコロニアルを絵に描いたような対応や、トムスン嬢が刑務所に入れられてしまうことを知りながらもサンフランシスコに送り返そうとするふるまいなどがそれに値する。このように「宣教師」を描くことが、多くのキリスト者にとって愉快なものでないだろうという想像が決して困難なものではないことは、どれだけ補足してもしすぎることはない。

ただし同時に、宣教師の何もかもを振り切った無敵ぶりは、確かに「神」のような絶対的なものに背骨を支えていてもらわなくては不可能なものであるように見えることもまた、同時に看取しうるように思う。見ているもの、そばにいるものを、思わず怯ませずにはおかないような、作中の宣教師のふるまいかた! それを端的に示すエピソードとして、宣教師たちが座を外したあとも、なんとなくトランプのような遊戯をするのが憚られるというマクフェイル夫妻の心情描写は、個人的には非常にうまいと感じられた。

作中で降りつづく、故国のやわらかなそれとは違う熱帯地方の雨季の「雨」によって、関係と空間に閉鎖性を創出し、入り込む他者性を最小限におさえているという点も、宣教師の人物像の揺るぎなさに一役買っている。マクフェイル医師が、妻を通じてでしかデイヴィッドスン令夫人にデイヴィッドスン宣教師の死を伝えられない情けなさと、冒頭附近に出てくる、デイヴィッドスン令夫人がマクフェイル医師に直接「原住民のおぞましい結婚の風習」を伝えられずにマクフェイル令夫人を経由する、というのも、当時の男/女をシニカルに描いているようで、小説的魅力に満ちている。

 以上を踏まえ、総合的には大変面白く読めた一作だった。該当書籍には他に「赤毛」「マキントッシ」の2作も併録されているが、こちらはどんな作品なのだろうか、非常に楽しみである。


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作品情報:
サマセット・モーム、朱牟田夏雄 訳『雨・赤毛 他一篇』岩波文庫、1962年

シャーロット・ウェルズ「aftersun/アフターサン」

 11歳の娘・ソフィと父・カラム(離婚してソフィは母に引き取られている)のトルコでのヴァケーションを、ソフィが撮影したビデオの映像や、なぜか泣いている父・カラムの映像、大人になったソフィの映像などを差し挟みながら一編の「映画」として成立させた「aftersun/アフターサン」について、へんてこな話、程度の予備知識で見たのであるが、聞きしにまさるへんてこぶりで、当惑する、というよりもうれしくなった。安易な理解を拒む、というのは、一つの美点となりうるからである。

さて、筆者がいったいどのあたりをへんてこと思ったのか、順番に振り返ってみよう。

まず、トルコのホテルについたカラムが部屋からツインで予約したはずなのにベッドが1つしかないと固定電話からフロントにかけているシーンがあるのだが、固定電話からかけているにもかかわらず、立ち上がってソフィのベッドを直してやっているとおぼしきシーン。電話のコード、そんなに長かったっけ? という点について違和感をおぼえた。

それから、ソフィが大人向けの雑誌を読んでいる隣のレストルームでカラムがギプスを外しているのだけれども、そのほぼ真ん中で分かたれた2つの部屋の色彩設計の違いに吃驚し、ああ、これはソフィは実は死んでいて、カラムが思い出の旅に来ているのかな、と思った。

そのように見ていくと、カラムがソフィに誰かに襲われたときの抵抗のしかたを真剣に真剣に教えているのもにわかに納得がいき、そうして、実際にソフィが誰かに口をふさがれたときにはすべてがつながったように思った。けれども、じつはソフィの口をふさいだのは、いっしょにバイクゲームで遊んだマイケルであり、2人が夜のプールへ行ってキスする、という展開になったときは、またしてもあれ? と思った。

そうこうしているうちに、大人になったソフィも出てきて、え、それじゃあもしかして死んだのはカラムのほう? ……と思ったけれども(そうして、ブログなどで様々な方が指摘しておられるように、ラストシーンからそれを汲み取れるというのはわかる。ダンスホールもそうだけど、ダンスホールに至る廊下のさみしさ。)個人的には、どうもその見方もしっくりこない部分がないではない。(ただしそれは、私がずっとソフィのほうを死んだものと決めつけていたからだ、という可能性があることは否定しない。)記憶と事実、あるいはこの宇宙とそれと平行なあの宇宙的なものを、そのありかたそのままに、1つに詰め込んだ作品だとは思うのだが。

ワンカットは流れ流れるように比較的短く、緊張感は凝縮されるもののすぐに発散され、あたかも記憶のように断片的だ。メタ的な、という言葉で逃げてしまえば楽であるけれども、これはちょっともう1度どうなっているのか掘り起こしたい作品である。


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作品情報:
シャーロット・ウェルズ『aftersun/アフターサン』2022年


マリヤム・トゥザニ「青いカフタンの仕立て屋」

 やわらかなカフタン用の青い布からやわらかそうな毛の生えた腕へ、というオープニングのシークエンスがまず印象的な「青いカフタンの仕立て屋」について、あらすじをまずは述べておこう。同性愛的指向を持つ仕立て屋のハリムの元に弟子入りしたユーセフ。あるとき、店を切り盛りしておりハリムの妻・ミナ(乳がんの予後が悪く弱っている)がピンクのサテンの布がなくなったといい、ユーセフを犯人扱いする。ユーセフは気にするそぶりもないどころかハリムに対して愛していると言うが、ハリムは応えずユーセフは店をやめる。ミナは日ごとに弱っていく中、サテンは自分が誤って返品していたことに気づくがユーセフにはそれを言えないでいる。1週間店が開いていないことに気づいたユーセフはハリムの元を訪れふたたび助手として働くようになり、ミナはサテンの件をようやく詫びることができ、自宅でハリムとユーセフは仕事をつづけていたが、ミナはついに亡くなり、ハリムは彼女に白衣ではなく彼女が「私も結婚式にこんな服を着たかった」と言っていたオーダー品のカフタンを着せて柩に載せ街を運ぶ――。

 本作をビシッと引き締めているのは、なんといってもミナ役のルブナ・アザバルのしっかりとしたまなざしではないだろうか。ハリムよりもユーセフよりも、断然決然としていて意志深く、客あしらいのうまさなどとも相俟って、いかにもミナを強い女として描くことに成功している。乳がんを患い弱って生きながらもジョークを忘れないなどというのは、まさにその好例だろう。そうして、そんなミナをどのようにとらえるかによって、実は本作の政治的な評価はけっこう揺らぐのではないか、と思う。

 私は本作のハリムとミナの関係を、当初は性などものともしない愛を築き上げてきた2人、というように看た。しかしそれをミナが果たして望んでいたのか? ということにまで考えをめぐらせると(ミナのほうからハリムを性的にと言っていいだろう愛撫するシーンがある)、これはきわめて独善的なゲイの物語になってしまいうるのではないか? それでも、ミナの何ひとつあきらめていないような強いまなざしと、ハリムのすべてをあきらめたようなまなざしを比較すると、どうしても当初の見方に戻ってしまう自分がいる。おそらく「それ以上」は表現されていない。そこをどこまで汲み取るのが観衆の作法なのか? 答えはまだ出ない。


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作品情報:マリヤム・トゥザニ『青いカフタンの仕立て屋』2022年

2023年6月19日月曜日

「物語におけるアイコン、あるいは「他者」について――児玉雨子「誰にも奪われたくない」論」

 はじめに

「誰にも奪われたくない」は「文藝」2021年春季号(河出書房新社)初出の、作詞家として活躍する児玉雨子氏のデビュー小説である。

まずは作品のストーリーを概観しておこう。兼業作曲家の玲香は、アイドルグループ・シグナルΣの「ジルコニアの制服」を作曲したことをきっかけに新年会に招待され、その席で、メンバーのひとりである真子とLINEを交換する。玲香はその後、真子といっしょに食事をしたり、家に遊びに行ったり、あつ森をともにプレイしたりする。やがて真子は盗癖が発覚し、シグナルΣを解雇される。以上のような真子と玲香のストーリーに加え、玲香の本業である銀行勤務――そもそもは一般職だったが、総合職に配置換えされた――における葛藤――この葛藤の描かれ方の特異性については、いずれ考察する機会を得たい――が差しはさまれるような構成となっている。

本作について、たとえば道重さゆみ氏は、〈私でありつづけることは難しい。それを求める主人公レイカは強い。〉という言葉を単行本版の帯文に寄せている(※0-1)。また、ぱいぱいでか美氏は本作を〈“生きづらさ”……その言葉で楽になったり何なら名称がついたり、はたまた特別な人間ってわけじゃなかったのかという落胆さえこの作品には描かれている。自分の話のようでゾッとする。そして同じようにゾッとしている人間が、夥しい数いるであろうことにまたゾッとする。〉と評した(※0-2)。担当編集の矢島緑氏は、児玉氏の作品の魅力について〈描写の解像度の高さや、一文を取り出したときの情報の凝縮感〉を挙げている(※0-3)。

本論においては、「誰にも奪われたくない」におけるコミュニケーションの描かれ方、iPhoneSE2という固有名詞が果たす機能、「整然」「雑然」という様態が暗に示す人の在り方、社会の中における人の存在の仕方を考察し、そこから「誰にも奪われたくない」というテクストの美点を為す特徴を摘出することを目的とする。

1. 三相の会話、あるいは鍵括弧という「楔」

「誰にも奪われたくない」においては、主に3通りのコミュニケーションが存在している。すなわち、①LINE、②電話、③対面での会話となる。そうして、本テクストに目を通せば、そこに微妙な描出の相の違いが存在していることに一読気づかされだろう。

まず、②の電話について、本テクストでは玲香と林の電話は、たとえばこのように表現されている。

普通に、帰ってる最中。めしは? これから家で食べる。何作るの? ごめんもしかしたら通信制限で切れちゃうかも。あ? 大丈夫だよ、通信制限って電話関係ないから。そうなの? うん、で、何食べるの? ラーメンかな……賞味期限処理。あと焼鳥も。

このように、互いのやりとりがシームレスにつながり、瞥見しただけではどちらの発語か戸惑うような表現となっている。

また、電話については以下の玲香の発言も無視することはできない。

なんで電話無視するんだよ、と軽い調子でありながら、林はこちらの様子を窺うように訊いてきた。

「イヤフォン無くしちゃって、片方だけ今取り寄せてる状態だから」

「無くても電話自体はできるじゃん」

えっほんとだ。バカかよ。

玲香は通話時にはイヤフォンをつねにしていること、すなわち、通話相手の声が、ダイレクト且つクリアーに聞こえるような「場」にあることが理解される。

次に③の対面での会話について、こちらには2種類の描かれ方が存在している。②と同様にシームレスに二者の会話がつながっていく場合と、鍵括弧鍵括弧内にセリフとして組み込まれている場合である。後者のパターンについて、一例を挙げておく。

「そんな形あるんですか⁉ 新しいのですか?」

「新しいかはわかんないけど、AirPods Proっていう、ちょっとだけ高いやつ」

「えー、いいなあ、AirPods Pro。あの、普通のAirPodsって、プニプニがないじゃないですか。わたし、耳小さくて、プニプニが取り替えられないものは落ちちゃいそうだなーって思っちゃって変えなかったんですよー」

最後に①のLINEについて。LINEのメッセージの大半は、【】に挟まれた太字で、以下のように記述されている。

【今日はありがとうございました! 久しぶりに会えてほんとうにうれしかったです。そしてまた玲香さんの曲を歌えてほんとうにうれしすぎます……!】【こういう雰囲気ですけど、ぜひまたごはん行きたいです! ガレット最高でしたね(瞳を潤ませた顔の絵文字)】【でも、今はな~って思われたら、ほんとに、遠慮なく断ってください(土下座する女性の絵文字)(汗の絵文字)(汗の絵文字)】

これらの表現方法の差異あるいは多様さを考えるにあたっては、作中でコミュニケーションがどのような認知のもとになされているかを見る必要がもちろんあろう。

玲香は他者とコミュニケートするにあたり、自らのコミュニケーション方法や相手のコミュニケーション方法について、非常に鋭敏な感受性を見せている。たとえば、新年会での真子との会話に際しては、〈彼女に合わせて、訊かれたことをアンケートのように答えてゆけば、自然と強度のある会話が成立していた。〉と言っているし、だれかに何かを〈説明〉することは、〈他人が知らない言葉を呪文にして威圧している気分になる〉と言っている。また、金融商品の売り込み方について先輩の三浦から注意を受けた際には、

三浦さんは先ほどわたしが商品を売り込んだときより、テンポを落として諭していた。確かに矢継ぎ早に丸め込むより、ゆったりしながらも極力絶え間なく言葉を挟み込むほうが耳に残った。それだけじゃない。ねぇ、と忘れたころに弱拍を強調することで、漫然としてしまいそうな話に緩急が生まれる。不安定なリズムで、聴いているだけで揺り動かされそうになる。

と、その話し方の特性をつぶさに観察し、いっぽうで自分の相槌を〈ドラムの打ち込みのよう〉と表現する。

これらの例からうかがえるのは、玲香のコミュニケーションのいずれもが、お世辞にもなめらかとは言えない様子である。それはすなわち、玲香が対面でのオーラル・コミュニケーションを極めて苦手とするタイプの人物として作中では表現されている、ということになる(※1-1)。実際、玲香が、次のように述懐する箇所がある。

自分の書き言葉と話し言葉のテンポの違いに、真子ちゃんは戸惑わなかっただろうか。真子ちゃんのメッセージは、ひと言ひと言、絵文字も含めて、すべらかに彼女の声で再生ができた。どんな声色やテンポで彼女に語りかければ、自然な、あるべき会話になるのだろう。

ただこうして会って話しているときより、ライブ映像を観ていたり文字でやりとりしているときのほうが、わたしは真子ちゃんに対して誠実でいられる。

そうしてさらに、この述懐からは、玲香にとって「だれかと会って話す」という営為には「ある種の不自然さ」とでも言うべきものが付き纏うということもわかる。

さて、それではその「ある種の不自然さ」は何に由来するものだろうか。それを考えるヒントとなるのが、林から電話がかかってきたときの、林の声を認識する際の枠組である。

何してんの?

また、透徹した無音から林の声がくっきりと届く。

〈透徹した無音〉とあるように、ここで玲香は、林の声「だけ」を聞いていると考えられる。そこには、日常生活にはつきものの、「自分たち以外の人やものの音声」が、存在していない。もしくは等閑視することができている。また、林と玲香は敬語を使う間柄になく、電話で話す内容としても埒もないものが多いことにも着目すべきだろう。別の視座に立てば、「そうではない」場合、たとえば三浦や真子と会話をする際には、〈透徹した無音〉を欠いている、すなわち、三浦や真子の言葉「以外」の情報が氾濫している、ということになる。そうして、その情報量に、玲香は圧倒され、妨げられていると言っても過言ではない。これこそが玲香に付き纏う「ある種の不自然さ」の正体であろうことは、さほどに飛躍した推論ではないだろう。

それは、本論「はじめに」で引いた矢島氏の言葉によって傍証される。〈描写の解像度の高さや、一文を取り出したときの情報の凝縮感〉とは、玲香の一人称によって語られる本テクストにおいては、すなわち、玲香自身の認識の解像度の高さや日常的に受け取る情報量の多さに他ならないからである。

また、このことを踏まえると、シームレスな会話とそうでない会話の混在も、本テクストにおいては非常に理に適った使い分けであると言える。すなわち、シームレスな会話は玲香にとってどんどん後景へと流れていってしまう会話、鍵括弧のついたセリフは玲香にとって前景に押し出されたセリフであると言えるのではないか。

この仮説を裏打ちするのが、本テクスト内におけるLINEの文面の表記である。先述のとおり、本テクストにおいてLINEの会話は【】に挟まれ、尚且つ太字での表記となっている。すなわち、ページを開けば文字通り、「目に飛び込んでくる」ような表記――著しい前景化――をされている。一方で、たとえば新年会に参加したグループのLINEは〈その多くがひと言ずつの返信なので、メッセージがすかすかのジェンガみたいに倒れそうなバランスのまま堆く伸びてゆく〉と表現されるだけで、具体的な表現については、テクスト上では一顧だにされない。つまり、テクストの後ろ側に文字通り退いている。この明白な温度差は、対面での会話においても同様にあると考えるべきだろう。

さて、このことを踏まえたうえで、三浦や真子の発話を見てみることにしよう。

三浦に相対している場合と真子に相対している場合では玲香の心理にむろん違いはあろうが、それでも共通点を見出すとするのならば、鍵括弧に入れられることによる効果には、同様のものがあると言える。無論LINEの場合と同様、その言葉を前景化する、というものである。圧倒的な情報量を背景に、何かをつねにつねに前景化するもっとも基本的なやり方は、背景とは別レイヤーに発話を設定し、それをつねに最前面に置きつづける、というやり方であろう。

とはいえ、現実と結合はされていないものは、一般的に言うなら、現実から乖離しようという欲望がつきまとう。一方で、鍵括弧が担う機能として、それがセリフであること、すなわち作中の現実においては客観的な事実であることを示す、というものがある。本作においては、コミュニケーションに応じてその表現方法が変わることにより、前景化しつつ定着する、という、いわば楔としての鍵括弧の機能をむきだしにしている、と言える。端的な言い方をするのなら、記号を純記号的に扱うのではなく、記号が内包している可能性に対する鋭敏さを見せていることに、本作の美点のひとつはあると言える。

2.「iPhoneSE2」という固有名詞、あるいは「欲望」について

「誰にも奪われたくない」には、いくつかの固有名詞が登場する。たとえば「ニューデイズ」であったり、「Cubase10」であったり、「あつ森」であったり、「AirPods Pro」であったりというのはその一例だ。その一方で、玲香が真子と食事をした店の名や、玲香が居を構える自宅の最寄り駅名などは丁重に隠されていることも指摘しておかなくてはならないだろう。本項においては、本作でとりわけ頻出する固有名詞「iPhoneSE2」に着目し、その使われ方についての一考察を試みる。

本テクストにおける主人公・玲香の最初の購買行動は、以下のように記述される。

ニューデイズで一本四七八円、税込五二五円の、自然由来成分で肌に優しいと謳う限定色の商品を買った。それしかなかった。改札を出てドラッグストアまで行けば、ただ乾燥を潤すためだけのシンプルなものがもっと安く買えるけれど、今すぐに手に入れば別になんでもよかった。

この行動は、本作においては、ある意味において非常に象徴的である。具体的に言うのなら、「『これを買おう』という欲望の欠如」がここには言葉を尽くして表現されていて、なおかつこの「『これを買おう』という欲望の欠如」は、テクスト中の玲香の購買行動を支配しているからである。ほかの例をいくつか挙げるなら、たとえば夕食用に買った〈焼鳥〉は〈三割引シールのある〉もので且つ「味わう」場面は割愛されていて、〈ピーマン〉をマンションの〈向かいにあるまいばすけっとで(……)買って来〉るのは、ピーマンが食べたかったからではなく、〈せめて包丁で何かを切って、ガス火くらいつけなくては〉〈包丁の握り方すら忘れてしま〉うという危機感に基づいている。これは、真子の自身の盗癖についてセリフ〈でもこれ、単純に欲しかったというか、結局物欲が抑えられないことの言い訳なんですよね〉と好対照をなすと言ってよい(※註2-1)。

それでは、なぜ玲香はiPhoneSE2を使用しているという設定なのだろうか。iPhoneSE2は2020年4月24日に発売された(※註2-2)、テクスト中における、iPhoneの最新機種であると考えられる。それを踏まえると、ひとつには、作品中の時間を同定する機能があるだろう。すなわち、マスクをつけている描写などとおなじく、本テクストがコロナ禍の日々を綴ったものであることが、iPhoneSE2という固有名詞の使用によって明らかとなるのである。

iPhoneSE2は、しかし、iPhoneの廉価版ということもあり、2019年に発売されたiPhone11に、いくつかの機能面では張り合うことができない。が、廉価版とは言え、iPhoneSE2は格安スマホなどと比べれば決して安価とは言えない。ましてや、〈ワイヤレスイヤフォンは高価なので、やすやすと代替用を購入するわけにもいかな〉いと言っているくらいなのだから、iPhoneSE2の購入には、それなりの決断力が要求されるであろう。

これらのことから鑑みるに、玲香がiPhoneSE2を使用している、という設定には、この作品には珍しく、「『買おう』という欲望」が――デザインが気にいったのか、所謂Apple信者だから仕方なくなのかは不明だが、仮に後者であったのだとしても、「『買おう』という欲望」中での作用にそれはなるはずだ――ほの見えるのだ、と言える。

そもそも、玲香は欲望とはいささか縁遠い存在として造形されている。たとえば、彼女は銀行員と作曲家という二足の草鞋を履いているわけだが、どちらもばりばりにこなしているわけではない。銀行ではFP2級資格をまだもっておらず、勉強しようとテキストを買ったものの、〈やろうとしていたけど、申し込み終わっちゃってた〉という具合であり、顧客への金融商品の勧誘についてもまた〈他人を騙してるみたいでしんどい〉と及び腰だ。肝心の作曲のほうでも、なかなかコンペを通らないうえに〈Cubase10を起動したものの、白鍵、黒鍵、白鍵、黒鍵、白鍵、白鍵、黒鍵の模様を眺めるだけで、指が動かない。(……)進行やスケールから、流れを削りだしたり、配列して体裁を整えるのだが、それすらも強く奮起しなければならなくなってきた〉と行き詰まりを見せているが、それをどうにかすることなく――あるいはどうすることもできず――その日は〈作曲を諦め〉てしまう。

この欲望との縁遠さを、玲香の生来のものと位置づけるべきか否かという点については本論の考察の対象とはしない。(あくまで現段階での筆者の感触ではあるが、生活上で蓄積していった疲労が、玲香を欲望から遠ざけているようにも見える。)本論において踏まえておきたいのは、欲望という、一面では人を人たらしめるものの表出が希薄な結果、玲香は、たとえば「真子ちゃんには興味をもっていた」ではなく、〈真子ちゃんに興味がないわけではなかった〉という微妙に歯切れの悪い言い回しを用い、また、〈わたしは他者から分けてもらったり奪ったりしてきたものの組み合わせであり、それらの総体でしかない。/組み合わせのわたしは、そこから盗まれ続けてもいる。〉という認識に至る、という点だ。

そんな中において、玲香の欲望が作用しているiPhoneSE2は、「誰にも奪われたくない」においては、貴重な、と言ってもよい玲香の主体性の表明になっている。これを踏まえると、彼女が鏡代わりにiPhoneSE2のセルフィ―モードを使用したり、LINEはもちろんのこと、音楽を聞くのもYouTubeを見るのもiPhoneSE2であり、〈ロッカールームの隅で、手持ち無沙汰にほとんど通信できないiPhoneSE2を撫で〉たりすることは、俄かに重要な意味を帯びてくると思料される。それらの動作は、iPhoneSE2に「自身を託す」というのに限りなく近いニュアンスを発生させるからだ。

さて、物語のクライマックス部で、このiPhoneSE2には衝撃的な展開が待ち構えている。

わたしは持っていたiPhoneSE2を地面に叩きつけた。(……)うお、すごい、ヒビやばい! と茶化しながら、砂粒を払って、蜘蛛の巣が張ったような亀裂が走った画面のiPhoneSE2を(引用者註・そのときいっしょにいた林が)手渡してきた。iPhoneSE2は画面保護カバーを貼っていたのでガラス片が離散せずに済んだものの、亀裂からは液晶が滲出して、画面のところどころに小さな黒い液溜まりを作っていた。今まで見たなかで最も希望のない黒色だった。

この、玲香による、自身を託していると言っても過言でなかったiPhoneSE2の破壊行為をどうとらえるべきか。

iPhoneSE2を破壊した直後、玲香は林にこう告げる。

なんで林から、正しさを教えられなきゃいけないの。(……)わたしを林の中のわたしに変形させようとしないで(……)どうして当然のように、自分のことを無条件にかけがえのない存在だと思えるの?

これは、例えば〈お前いっつもそのうどんじゃない?〉と社員食堂で言われ、そのまま〈断固として林は、わたしの普段の昼食にわかめうどん以外を認めなかった〉へとなし崩しにされてきた玲香とは、おそらく一線を画した態度なのではないだろうか。

また、帰宅後玲香は、真子にLINEを送る。

【真子ちゃん。元気? カウンセリングはどう? 会いたいなーと思っている(照れたように頰を染めた顔の絵文字)(照れたように頰を染めた顔の絵文字)】

このLINEの文面が読者に吃驚すらも齎しうるのは、こういう誘いをかけるのは、テクスト中では決まって真子のほうだったからである。玲香が真子にLINEを自分から送った例として挙げられるのは、「あつ森」の粘土の使い道を聞いたときくらいではなかったか。

これらの「玲香の変化」を感じさせうるものが、いずれもiPhoneSE2の破壊後に起きていることは、玲香の実際の思惑がどうであるにせよ、単語を配置して文をつくり、その文を集めつなぎあわせた「テクスト」というものの中においては、ひとつの解釈を否応なしに導いてくる。すなわち、iPhoneSE2という自身のオルタナティヴを破壊することが、いわば「自殺行為」として作用するのではなく、そこに籠めていた自我を自身のなかに正しく取り戻すものとして作用した、という解釈である。また、林に厳しい言葉を浴びせて帰宅した後、マスク(=顔、すなわち人の個性を端的に示す部位を隠すもの)がなくなっていた、というのも、この文脈に置くと、ようやく玲香が、いわば素顔で話をすることができた、というアナロジーを帯びてくることを付言しておこう。

さて、この破壊したiPhoneSE2を、玲香は修理に出そうとする。それがどういう効果を玲香に及ぼすのか、残念ながらテクスト内部の時間は、玲香がiPhoneSE2を修理に出す前に終わっているので、明らかにすることはできないと言わざるをえない。iPhone12と玲香の関係に焦点をあてたとき、本テクストはいわば、玲香の「未来」を暗示することなく終わる。しかし、コロナ禍の先行きの見えなさを引き合いに出すまでもなく、未来とは本来「誰にもわからない」もの、すなわち暗示など本来不可能なものである以上、「人間」の安易な物語化を拒むかのような本テクストのその姿勢は、むしろ正しい力学のなかにあると言っても、おそらく過言ではない。

3.物語におけるアイコン、あるいは「他者」について

本テクストにおける、アイドルグループ・シグナルΣのありかたは、たとえば玲香と真子の以下のやりとりからうかがうことが可能である。

「本マイク」初めて聞く単語が間髪を容れず耳へ襲い掛かってくる。「ごめん、そのあたり、あんまりよくわかってないんだけど」

「ちゃんと音を拾っているマイクです」「音を拾わないマイクってあるの?」「ありますよ。わたし歌唱メンバーじゃないから、ダミーマイク使わされるんですよ。ダミーというか、本物なんですけど、電池抜かれて、電源が入らないようになっていて、だいたい選抜で入ったら本物かダミーかで振り分けられるんです」

ここで真子によって暴露されるのは、複数名からなっているはずのアイドルグループのうち、何名かの「声」という個性が剝奪/剪定されているという事実である。そうして実際、その結実として、玲香はシグナルΣのライブ映像の一部を見たとき、彼女たちの声から、〈それぞれの区別をつけさせないようにしているのではないかと勘ぐるほど、平坦に均され〉たような印象を受けることになる。グループというパッケージは、多様性を内包するというよりはむしろ、全体がひとつの規格品であるかのように個々のありかたを統御する形に機能している、と言える。

また、真子の顔面について、玲香は以下のように描写する。

狭い顔面には、綿密にアイシャドウを塗った深い二重まぶたと、まつげが上下にしっかりと生えている大きな目がふたつも押し込まれていて、たくさんの情報が散らからずにしっかり並んでいた。

一見、美しい、かわいらしい、などという結論を導き出しそうな導入であるが、玲香はそのようには認識せず、〈情報が散らからずにしっかり並んで〉いるという印象に逢着する。(結果としてそれが、本テクストにも字面となってあらわれることは言うまでもない。)〈情報が散らからずに〉、という玲香の印象もまた、統御の効いた形ととらえてよいだろう。これらを踏まえると、必要なものだけを残し余計なものを排除した「整然」として、シグナルΣの、いわば「外形」は構築されている、と言える。

これらをより鋭く言語化しているのが、真子の謹慎中に真子の〈立ち位置〉(無論この表現からして、個性を取りこぼすものだろう)におさまった〈みーたん〉についての描写であろう。

みーたんは(……)子どものようなやわらかい頰を、真子ちゃんのようにシャープにさせていた。写真の中の表情はもちろん、話し方、耳に髪をかける手つきも真子ちゃんを連想させた。というよりも、そのポジションにいると、誰でも真子ちゃんやみーたんのようになるのかもしれなかった。(……)配置と役目に嵌め込まれていたのだと思う。真子ちゃんはそのポジションをみーたんに奪われてしまった。グループの中にはもうきっと、真子ちゃんの立つ場所はどこにも残されていないのだろう。

グループというパッケージは、表情だけでなく話し方や仕草まで「個性」よりは〈立ち位置〉に応じた、すなわち「整然」のなかに規定された「役割」を優先させることを要請する。さらに言うなら、玲香は〈真子ちゃんやみーたんのようになるのかもしれなかった。〉と言っていて、その要請を「所属事務所からの圧力」などではなく、いわば不文律、「暗黙の了解」に従ったものと見なしていることも注目に値するだろう。「暗黙の了解」とは、「一定の周知」の裏返しであるからである。

ここまで見れば、シグナルΣというパッケージについては、たとえば「物語」における「アイコン」――あくまで「物語」における「アイコン」であり、「テクスト」における「人物」などではない――がほとんど象徴的に表現されている、ということが、容易に納得されるであろう。物語の展開のためにだけ奉仕する駒としてのアイコンは、特徴こそ有しているもののそこからはみ出すものは少なく、同じ特徴を有していればいくらでも代替可能――むしろ、物語の「なめらかさ」のためにはいくらでも代替されるものである。すなわち、物語におけるアイコンとは、ある意味においては「人」というもののあらまほしき姿に対して反旗を翻すものである、とも言える。

さて、それでは本作は、アイコンの、アイコンによる、アイコンのためのテクストなのだろうか。そのことを考えるにあたってまず見てみたいのが真子の生活である。

アイドルというパッケージングの外での真子の様子を伝えてくるものとして、まず、真子の部屋のありようがある。真子の部屋は、「整然」というよりはむしろ「雑然」とした感を与えるものであることが明記されている。〈電子レンジ〉に〈貼られ〉た〈粗大ゴミシール〉や〈赤黒い汚れの痕〉、〈さまざまな陸生動物を象った未使用の食器洗い用スポンジ〉、〈セミダブルベッド〉に〈脱ぎ捨てられ〉た〈コートやニット〉、〈対戦カードゲームのデッキや企業ロゴの入ったボールペンや付箋〉、等々。これらの事物から、玲香は〈どこかパースの狂った部屋〉という感触すらも持つ。

加えて真子には盗癖があるという設定が出てくる。アイドルと盗癖という組み合わせは、一見したところきわめてスキャンダラスで、実際作中でも「醜聞」と呼ぶにふさわしいものとして描かれている。これらの真子のありかたは、アイドルというアイコンがアイコンのままアイコンとして機能する物語と本作のあいだには、まぎれもない懸隔が認められると言ってよいだろう。

いっぽうで本作の主人公であり語り手でもある玲香はどうだろうか。たとえば、以下のような述懐も引いてみることで見えるものがある。

どうしてもたったひとりだけで存在を完結できないという事実が幻痛のように噴き出す。(……)わたしは他者から分けてもらったり奪ったりしてきたものの組み合わせであり、それらの総体でしかない。

この箇所に明白に表れているように、玲香は自身を独立した「個」ととらえることができない。それどころか、〈他者から分けてもらったり奪ったりしてきたものの組み合わせであり、それらの総体〉とあるように、そこには「個」のオリジナリティが存在する余地すらもない。これはちょうど、物語におけるアイコンや本テクストにおけるシグナルΣのありようと、ある側面から見たときには、極めて似通ったものとして自身を認識していると言ってよいのではないだろうか。

〈組み合わせの私は、そこから盗まれ続けてもいる。(……)回り回ってわたしたちは同じものでつくられているのかもしれない〉に至って、より問題は深まっていく。ここでは、自己がないのと同様に、厳密な意味での他者、自分とは全く異なる存在としての他者というものまで玲香は喪いかけている。だれもが「物語」に都合のいいアイコンとして消費されるだけであり、おのおのの「声」など有していない存在になりそうなところで、しかしながら、玲香はこのように続ける。

けれど、たとえ盗んだり奪ったりしても、直接返してくれたのは真子ちゃんだけだった。

〈けれど〉という接続を踏まえると、真子は明確にここでは「自分とは全く異なる存在としての他者」として描かれている。そうして、そういった「他者」によって丁重に扱われることにより、玲香もまた「だれかにとっての他者」、すなわち「かけがえのない自己を有する存在」として存在することができるようになったのではないか、という仮説を立てるのは、そこまで難しいことではないだろう。

そのような目線で振り返ってみると、真子とおぼしき人物のコンビニの盗撮動画について、玲香は〈ほとんど真子ちゃんだけど、真子ちゃんかどうかを断定できる権利を誰も持っていない。〉という表現をしている。この箇所を特徴づけているのは、「断定できる証拠」などではなく〈断定できる権利〉という言い回しを用いているである。もちろん、〈断定できる権利〉がないのは「断定できる証拠」がないからであり、両者は密接な関係にあると言えるが、〈権利〉という一歩踏み込んだ言い方をすることにより、真子が、享受者が自由にあつかってもいいキャラクターではなく、「基本的人権」というものを有するひとりの人間であることを同時に浮かび上がらせている。その向き合い方は、十分に節度あるものであろう。

また、真子の盗癖が報道されたあとの様子を、玲香は次のように描写している。

彼女の顔と名前も知らなかったひとたちが彼女を推測のままに語り、わたしやファンの知らない、真子ちゃんと同姓同名の歪な人間がほんの一日、二日のうちに生まれ育ち、そして絶命しかかっていた。

揣摩臆測によって拵えられた真子を〈同姓同名の歪な人間〉と称する玲香の態度は、真子を「消費」する者とは明確に一線を画している。逆に考えれば、揣摩臆測によって真子像ができあがる→その真子像を玲香が言外に否定する、というテクストの構造によって、「真子を消費しない玲香」像が形成される、とも言える。

さて、ふたたび真子へと戻ろう。真子がアイドルでありながら万引きという犯罪をくり返したという事実が有象無象を興奮させたことはすでに引用にて触れた。その反面、渦中にいる真子の周辺には、スキャンダルにつきものまばゆいフラッシュやインタビュー用のマイクといった激しいノイズはなく、不思議な静かさがあることに気づかされる。たとえば玲香は、真子が盗んだものを返してもらうために真子のマンションを訪れた際、〈マスコミやファンが来ているのではないかと身構えたが、目視できる限りではそれらしきひとはいなかった〉と周囲の様子を説明しているし、カウンセリングの様子を話す真子に対しては、〈口を噤み唇を結ぶように閉じて(……)頷き続け〉る。すなわち、言葉で相槌は打っていない。つまり、真子の盗癖は両極端な反応をテクストにおいては同時に示している、と言える。

もうひとつ注目すべきは、謹慎中の真子の顔面の描写である。

顔下半分は、真子ちゃんの一・五倍ほど腫れ上がっていて、ところどころに紫や黄色い痣が広がっている。鼻には血が赤黒く固まったガーゼと肌色のテープが貼り付けられていた。頰や口周りが腫れて硬直しているためうまく発声できないのか、声が前よりも籠もって、嗄れている。

このような状態のため、玲香はエレベーターホールにやってきた真子を真子と認識することができない。つまり、真子は「真子らしさ」を、いわばアイコン性を極限まで奪われていたと言える。いかにもそれっぽく〈推測のままに語〉られ形成され流布している「真子的なもの」と、玲香の描写する実際の真子の姿が対極に配置されていることは、先に述べた「騒々しさ」と「沈黙」の対比がテクスト中に存在していることも考慮に入れると、きわめて意味深長であるように思われる。なぜならそれは、アイコンのアイコンによるアイコンのためのテクストどころか、安易な「物語」への反-指向を意味するからである。

そうして、先の玲香の自己観をも重ね合わせるなら、本作において「物語」とは「盗み/盗まれ」「奪い/奪われ」と極めて近しい位置にあるものと言える。このことが要請するのは、玲香の、真子とのあいだに「盗み/盗まれ」「奪い/奪われ」以外の関係を築きたいという意志である。同じく先に引用した、〈直接返してくれたのは真子ちゃんだけだった〉という文言および「盗み/盗まれ」「奪い/奪われ」いずれも相互的なものであることから敷衍するに、それは、「自分も真子ちゃんに何かを返したいという意志」となるはずである。〈ほんとうの真子ちゃんの語り口〉を〈保護シートの貼られた艶々の画面〉に見出した玲香が〈たじろがないようにするから、こんなふうに打ち明けてほしかった〉と本文中にあるが、〈打ち明けて〉もらったあとに玲香が取るべき行動は何かということを考えてみれば、よりいっそうそれははっきりとするだろう。

以上のことから、『誰にも奪われたくない』とは、安易な物語を拒絶するのと同時に、「あなたと対話をしたい」という強固なメッセージがこめられた表題である、と言うことが可能である。(※註3-1)


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註0-1 児玉雨子『誰にも奪われたくない』(河出書房新社、2021年7月20日)帯文より。

註0-2 ぱいぱいでか美「生々しく張り付いて離れない不安定さ」(https://www.bookbang.jp/review/article/695220、2022年4月17日閲覧)

註0-3 「【Vol.12:児玉雨子】編集者が注目!2022はこの作家を読んでほしい」(https://hon-hikidashi.jp/enjoy/141837/、2022年1月3日、2022年4月17日閲覧)

註1-1 ただし、本作は玲香の一人称で語られる小説であり、その客観性には一定の留保が必要となる。

註2-1 ただし、このセリフを額面通りに受け取るわけにはいかないことは論を俟たない。

註2-2 「新アイフォーンSE発表 アップル、廉価版4年ぶり」(https://www.sankei.com/article/20200416-LXYNPU3WY5PLJMPVEJNEADWYIY/、2020年4月16日、2022年4月16日閲覧)

註3-1 「誰にも奪われたくない」の引用は、児玉雨子『誰にも奪われたくない/凸撃』(河出書房新社、2021年7月20日初版)に基づく。なお、引用者による省略は「(……)」により表し、原テクストの改行については、一部「/」で表した箇所がある。